北畠顕家戦死の地
太陽橋南詰め北畠顕家戦死の地に関して
北畠顕家公、南部師行公戦死の地
◎12月28日正月飾り付け
◎2024年1月4日飾り付け撤去、
◎2月18日長寿荘 役員会
◎7月30日 北畠顕家・南部師行公殉忠供養碑建替え作業終了。
◎ 北畠顕家戦死の地へのルート
◎1つ目は南海電車の和歌山行きの急行か自由席つきの特急で堺駅まで行かれ堺から各駅停車で石津川にて下車しそのまま南海ショップを通り抜けていき向かって左側の東商店街を通り抜けて右折して行かれるとその通りは紀州街道になっています、石津太神社辺りの交差点を更に直進して行かれますと紀州街道太陽橋に行きます、橋を渡り終わった所の左側に北畠顕家ゆかりの地があります。
※(或いは降りたら右側にタクシー乗り場があります(此処なら供養塔の事を聞けば分かる方もいるとは思います。駅前には説明看板があり大まかな地図が左側にあります)
◎2つ目のルートは南海電車石津川駅改札口を抜けて(ここに近隣の地図が改札口向かって左側に)直進すると、南海ショップがあり其処を抜けたら(正面には商店街の地図が有ります。南海本線高架左側の一方通行南方面への道を進んで行きます、たまに車が通りますので注意しながら石津河川堤防にあたります、目の前に石津川河川があります。其処を左側に折れ真っ直ぐ行きますと太陽橋が直ぐに見えます。後は最初の道と同じく太陽橋を越えて行き南詰めにち目的地の北畠顕家ゆかりの地があります。殆ど一本道です。
※(改札口降りたら右側にタクシー乗り場があります(此処なら北畠顕家供養塔の事を聞けば分かる方もいるとは思います。駅前には説明看板があり大まかな地図としてあります)
◎3番目のルートは阪堺電車にて来られると何処から乗られるかは定かではありませんので簡単に書き添えます、乗り場は天王寺か恵比寿停留所から乗車し我孫子(天王寺からだと直通)で乗り換えし石津川停留所にて下車し、浜寺公園方向を見て踏み切りを渡って西の方へと徒歩にて行きます。此処も一方通行なので車に気をつけせください、そのして突き当たりの道を左側へ曲がって行かれると最初のルートと合流します。此処でも車の往来に気をつけて下さい。太陽橋を渡って行くと南詰めに有ります北畠顕家ゆかりの地の供養塔があります。尚、北畠顕家ゆかりの地の周りは交通の難所となっていますので、車等でお越しなされる方には駐車場がありませんので出来る限り電車等を利用して頂ければ幸いです。
◎補足ですがgoogle MAPかYahoo! MAP等を利用して検索では北畠顕家ゆかりの地と書き添えればかなりヒットします。尚、此処はポケモンジムとして登録されていますね、検索したら出ると思います。最近はどうかは分かりかねますが。
◎来ていただきますと、少し狭い所場所だと感じられると思います、なるべく電車(阪堺電車)等にて来られるのが無難かと思います。石津川駅から徒歩で10分〜15分くらい、阪堺線石津停留所からは徒歩で5分〜7分位です。
◎次の段から北畠顕家ゆかりの地の説明をさせてもらっています。
※◎今年は、北畠顕家公生誕704年に当たる記念すべき年です。更に朝日新聞社から取材に来られるとの事です。緊張感漂いますね!それと動画等のアップロードは少し時間がかかりますのでお待ちくださいませ、
①北畠顕家戦死の地」(北畠顕家ゆかりの地)は、堺市西区浜寺石津町中5丁紀州街道太陽橋南詰めに有ります。
②今から685年前の南北朝時代の延元3年(1338年)に、「堺浦の戦い」いわゆる堺の港争奪の激しい戦いの時に、ここ浜寺石津町で戦死致しました。
③此の戦いを石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名があります。
※堺浦の戦い(石津の戦い)のCG画像は北畠顕家石津の戦いのページにあります。
◎戦闘と顕家の死
延元元年/建武3年(1336年)に、足利尊氏(たかうじ)に対抗するために京都を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇は、陸奥国多賀城(むつのくに、たがじょう)にいる北畠顕家に対して義良親王(後の後村上天皇)を奉じて上洛して尊氏を討つ様に命じます。
◎だが、顕家に反抗する北朝方の領主に攻められて南陸奥の南朝方拠点である霊山城に追われ、ようやく北朝方の抵抗を排して6万騎を率いて霊山城より南下を開始したのは翌年の7月であった。騎馬隊を巧に用いた戦略が功を奏し、その年の12月25日(1338年1月16日)には、斯波家長を攻め滅ぼして鎌倉を占領しました。その後も快進撃は続きました。
◎延元3年/暦応元年に入ると箱根を突破して美濃国青野原の戦いで北朝方を破りました。だが、北朝方主力が近江国から美濃に入った事を知った顕家は伊勢国に逃れて立て直しを図る。顕家は2月21日に奈良を占領するが、7日後に般若坂の戦いで北朝方桃井直常(もものい ただつね)に敗れて敗走する。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った後に河内国から和泉国に転戦して戦力再建を図り、3月に天王寺に軍を集結し同月16日に阿倍野の戦いで敗れ和泉に退く。
◎5月6日(5月25日)奥州軍、和泉堺浦の町屋を焼く
◎5月8日(5月27日)その後和泉国観音寺にて勢力の回復を図る、
◎5月9日(5月28日)奥州軍、和泉熊取、佐野、長滝の各地に進撃を開始。
◎5月15日(6月3日)顕家、後醍醐天皇宛に諫奏文を草する。
◎更に細川顕氏(あきうじ)・日根野盛治(もりはる)ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。これに対して尊氏の命で顕家討伐に向かった高師直は、5月16日(6月4日)に天王寺から堺浦に向かって出撃した。そして運命の、5月22日(6月10日)に堺浦で両軍は激突。賊軍北朝方は2万人、顕家軍は2000人程だったと言われます。
◎顕家軍は善戦したものの長征の疲労に加えて北朝方に味方していた瀬戸内海水軍の支援攻撃を受けて苦境に立たされました。顕家は兵力200人と共に石津で北朝方に包囲されて決死の戦いを続けたものの、奮戦中に落馬してしまい、ついに討ち取られる事になる。享年21歳という若さでした。顕家の他、名和義高・南部師行(もろゆき)らも戦死して南朝軍は潰走してしまう。
これによって、南朝は大打撃を受ける一方、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になりました。
◎平成30年の今年は、北畠顕家公生誕700年・南部師行公没後681年と言う節目に当たります。今年の慰霊祭は前年と変わらず来賓を数名お呼びし、午前10時00分より開始し午前11時には終わる予定です。玉虫奉奠は参加者全員で行います。又、慰霊祭の祭事の際は交通誘導警備員の指示に従って行動をお願いします。皆さま方のご協力の程お願い申し上げます。おかげさまで5月22日(火曜日)は晴天に恵まれ午前10時より慰霊祭が執り行われました。来賓及び一般参加者を含めて40人ほどが列席され、祭事は2時間程で無事故で無事終わる事が出来ました。来賓の中には川崎市から来られた方や兵庫県から来られた方などもおられました。参加されました皆様方のご協力に感謝致します。
◎お問い合わせは、管理人まで直接mailをお送りしてご意見・ご感想等を添えてお願いします。管理人のメールアドレスは [email protected]です。
北畠顕家公について
(花将軍) 北畠顕家さんについて
◎文保2年、3月2日(1318年4月3日)、北畠親房の長男として生まれました。父の親房は後の「三房」の1人として後醍醐天皇に近侍した人物である。
元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、
さまざまな官職を歴任し、 元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議・左近衛中将となりました。
14歳で参議の地位はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕(しじょう たかあき)ともに記されています。
◎元弘元年(1331年)3月、 後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという。※(これがきっかけで後に花将軍の名称として後世に名を残します。)
◎このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房(ちかふさ)同様に順調に出世をしていきました。これは顕家の才覚が幼少期から人々に認められていたからこそであろうと考えられます。
◎10月10日には正三位に叙任されます。、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向し、11月29日、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)でに到着し、東北地方の統治を始めました。
◎翌建武元年(1334年)8月、顕家は津軽における北条氏残党の追討を開始、11月19日までにこれを滅ぼし、12月17日には津軽平定の功績によって従二位に叙任されました。
◎建武2年(1335年)11月12日、鎮守府将軍に任ぜられる。それに先んじて、7月には東国では北条氏残党による中先代の乱が勃発していたが、8月までに足利尊氏が乱を平定していた。同月30日、尊氏は斯波家長を奥州管領としたが、これは明らかに顕家を牽制するものであった。
◎翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮・桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日には近江愛知川に到着した。
◎なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉の中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。当時も馬が主力の騎馬部隊でしたが主力の大半は槍や弓の兵力(歩兵部隊)での移動や戦いを強いられますので甲冑などの武具を身に付けての移動にはかなり疲労度を伴うとおもわれますね。大半の民兵の甲冑は粗末なのが多いかと思います。
その後、顕家軍は琵琶湖を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・楠木正成と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した。
◎1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は敗走しました。さらには高師直と関山で戦闘した。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで新田義貞・楠木正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功します。
◎2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃しました。
◎2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日には京へと凱旋致しました。
◎陸奥への帰還
3月2日、顕家は権中納言に任官し、3月20日あるいは24日には足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っています。
◎5月に入ると顕家は相馬氏を破り、奥州へと一旦帰還しました。この間、顕家と共闘した新田義貞・楠木正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、楠木正成は命を落とし、新田義貞は戦況不利と知り後醍醐帝と共に比叡山へと逃げた。
◎同年9月、武蔵国児玉郡浅見山(別名、大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こす。『元弘日記』によれば、この戦は官軍が皆有利とある。
◎霊山出発と鎌倉攻略
延元2年/建武4年(1337年)1月、父の北畠親房から伊勢へ来援する文書が送られた。
◎同月8日、顕家は国府を霊山(福島県相馬市および伊達市)の霊山城に移しました。
同じ頃、後醍醐天皇からも昨年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。脇屋義介と連絡を取り合っている」と返答している。
※濫觴舞楽(らんじょうぶがく)北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が多賀城から霊山神社に入城した際、地元民が歓迎と武運長久の願いをこめて舞った剣舞が起源とされています。 濫觴舞楽のほかにも、市指定無形民族文化財の「北又の獅子舞」や霊山太鼓なども奉納され、数多くの見物客が訪れます。 (下段の方に濫觴舞楽(らんじょうぶがく)画像あり)
◎8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったといわれてます。
◎8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入り、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い)。
◎12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がったそうです。
◎『太平記』によると、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったというが、これは誇張であると考えられますがいずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。
◎2月4日、尊氏の命により、高師泰・師冬・細川頼春・佐々木氏頼・高氏らが顕家軍討伐のため京を目指し進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦いましたが決着はつきませんでした。
◎2月21日、顕家は辰市及び三条口に戦って大和を占領するものの、28日に般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。
◎一方、河内国に退いた顕家は、伊達行朝、田村輝定らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺の戦いで勝利した。
だが、3月13日に北朝方と再び天王寺、阿倍野及び河内片野で戦い、翌14日に天王寺で敗れ3月15日には顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かいました。
◎3月22日、顕家は南朝から正二位・権大納言に叙任されている。同日、南朝は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、顕家の救援するように命じている。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている。
◎5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏・日根野盛治 ・田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。
この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏。※これが後述の『顕家諫奏文』(画像あり)である。
◎陸奥への下向と統治
元弘3年/正慶に年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された建武の新政を補佐していた。同年8月5日、顕家は従三位陸奥守となる。
◎京への進撃と足利尊氏との戦い
その後、11月に朝廷は尊氏の追討を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。
12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する。『太平記』によるとその兵力は5万だったそうです。
新田義貞との不仲