⑦北畠顕家公・南部師行公 慰霊祭行われる
保存会活動2
◎令和4年度、12月の年末年始飾り付けは12月29日午前9時半から、後片付けは1月4日午前9時半からです。いずれも2時間ぐらいです。
◎令和4年9月23日の保存会総会は臨時総会となりました。役員補充の為、一応曇り空の元で行われました。正式な発表は令和5年2月19日に行われる定例総会にて執り行われました。
◎北畠顕家公保存会役員は次の方々です。
会長 仲井正子、副会長 友田実、小川晴明、中島
◎会計 古川峰彦、 会計監査 中島様、以上
◎Web歴史街道小道
◎ 北畠顕家 (1318 〜 1338年)
後醍醐天皇に奉じ夭逝した美丈夫の武将
鎌倉末期の激動期に若くして散った「花将軍」である。北畠顕家は、『神皇正統記』を著したことで知られる北畠親房の長男として、文保2年(1318)に生まれた。出生地は不詳。かつ母についても不詳とされている。妻については後で触れる。
◎長じて顕家は、武芸はもとより舞にもたけ、元弘元年(1331)に後醍醐天皇と北山に行幸した際、顕家は「陵王」を舞ったが、その凛々しく艶やかな姿に「花将軍」と称賛されたとのこと。NHKで『太平記』が平成3年(1991)にテレビドラマ化された。その時、あの国民的美少女と言われたゴクミこと後藤久美子(若い方には馴染みがないか・・・)が顕家を演じたのも頷ける。
顕家は後醍醐天皇による激動期の建武新政の下、後醍醐天皇の命により皇子義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥(みちのく)へと下った。顕家の配下には、後々まで顕家と行動を共にすることになる南部師行(なんぶもろゆき)や結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達行朝(だてゆきとも)がいた。
◎顕家らは陸奥の多賀国府を拠点に、期待どおりの働きで陸奥を平定。建武2年(1335)に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、後醍醐天皇は直ちに顕家を鎮守府将軍に任じた。
顕家は義良親王と共に南部師行らを従えて西へと向かった。一説によると、顕家はこの挙兵の際には、後の武田信玄の専売特許のように思われている「風林火山」の陣旗を使用したとのこと。ちなみに、「風林火山」のそもそもの源は『孫子』である(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)。西へ向かった顕家は、後醍醐天皇の期待に見事に応えた。尊氏との各地での戦いには見事な勝利を収め、その結果、尊氏は九州へと敗走したのである。その後、建武4年・延元2年(1337)に再び尊氏が立ち上がった。
◎顕家は再び後醍醐天皇の要請を受け、尊氏と戦うべく南部らを従えて西行した。この時も騎馬隊を巧に用いて鎌倉の斯波家長を攻め滅ぼすなど、顕家の快進撃は続き、箱根を突破した。
顕家は、美濃国青野原の戦いでも北朝方を破ったのである。勢いのある顕家としては、そのまま軍を進め尊氏のいる京に攻め入ると思われるところであろう。ところが、何故か顕家はその後の進路を大和へとった。この顕家の行動については疑問との声も多い。
◎豊島河原(てしまがわら)(大阪府箕面市・池田市)
豊島河原は、建武3年(1336)に行われた、新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇と足利尊氏を総大将とする戦いの場であった。豊島河原合戦と呼ばれている。この結果、尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り兵庫へと退却したのである。
豊島河原は、建武3年(1336)に行われた、新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇と足利尊氏を総大将とする戦いの場であった。豊島河原合戦と呼ばれている。この結果、尊氏側は新田・北畠軍に敗れ去り兵庫へと退却したのである。