④北畠顕家保存会
北畠顕家保存会活動
源 顕家公(北畠顕家さん)保存会(発足平成24年12月1日)
◎平成24年 12月より保存会の名称が変更されました。
※変更後は源顕家公(北畠顕家さん)保存会となります。
◎保存会は北畠顕家に関わる遺跡等を末長く保存し、合わせて町の賑わい作りを其の目的としています。
◎保存会は以下の様な活動をしています。
1、掃除・剪定・献花等の日常の活動、
2、北畠顕家さんと其の部下が石津河原の戦いでの戦死(5月22日)を悼む慰霊祭と地蔵盆時(8月23・24日)に行う万燈籠等の年行事、そして平成28年の3月から月命日として毎月の22日に献灯供養祭を行う事が決まりました。午後6時より行われるのでご自由に来て頂ければ幸いかと思います。
3、浜寺石津連合町会と共に、堺市に「北畠顕家ゆかりの地」として掲示板を建ててもらう様に要望していましたが平成27年3月に北畠顕家公ゆかりの地としての説明看板を建てて頂きました。
4、北畠顕家さん戦死の地を地域の町おこしとしてかつようかし広めて行ける様に努めたいと思います。
◎北畠顕家没後676年(平成26年5月22日)、此の時の慰霊祭は多くの来賓を迎え盛大に執り行われました。ケーブルTV(J-com)の撮影取材(後日放映されました)、堺市西区のホームページ掲載のための写真撮影も行われました。参列者には「北畠顕家ゆかりの地と石津の関わりについて」のプリントを配布しました。
◎堺市西区のホームページに「北畠顕家ゆかりの地」として掲載されました。
◎西区のホームページの区の概要・区域図の歴史文化資源の箇所に 次のように掲載されています。
紀州街道沿いには北畠顕家の墓所と伝わる「ゆかりの地」などの旧跡が見られるとして、「北畠顕家ゆかりの地」の写真と共に紹介されています。
◎平成27年度に入り堺市西区のホームページが更新されています。
◎平成28年5月22日に行われた慰霊祭も無事に終える事が出来ました。平成29年は北畠顕家公・南部師行公没後680年の節目になりました。この地の事はまだまだ多くの方々に広く行き渡っていないので今後の活動を通して広めて行けれるように努力を続けています。
◎平成30年11月18日にはウォーキングラリーが浜寺石津町の主催で行われ天候にも恵まれて多くの参加者で賑わいました、
◎平成30年は北畠顕家生誕700周年の記念すべき年です。霊山神社や伊達市では平成31年の1月20日まで顕家さんの展示会を開催していますのでよろしくお願いします。(遠いとは思います)
◎今年も残すところあと1ヶ月少しですね、
※メール等は管理人のMail Adreess [email protected]まで、
◎本年令和元年5月22日には天候にも恵まれ無事慰霊祭を恙無く終える事が出来ました。地元のみなさんのご協力ありがとうございました。
◎又、8月22日と23日の両日万灯篭を行います。今年は豪雨による影響が九州地方に多くの人が被害を被りましたので一日でも早く無事にいつも通りの生活が始まれるように、それから最近は京都アニメーション所が火災により多くの犠牲者が出ましたのでその方々への黙祷も兼ねております。
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行家塚 説明
①「行家塚」(いくいえづか)は、南北朝時代の堺浦の戦いの時(1338年5月22日)、石津川河畔で弱冠21歳で戦死した北畠顕家を悼んで、江戸時代、正徳3年(1713年)に石津の村人が立てたといわれている墓碑です。表には「南無阿弥陀仏」裏には「行家、正徳3年癸巳年4月17日と刻して有ります。
行家塚②「太陽橋南詰に鎮守屋敷といへるあり。高さ三尺余の角石に『南無阿弥陀仏』と題し、背面中央に『行家』、側面に『正徳三年四月十七日』と刻せり。従来除地にて延宝7(1679)年検地帳に鎮守宮屋敷、宮建の小祠(しょうし)在せしとあるも、小祠正徳年間(1711~16)台風のために倒壊す。祠(ほこら)は再建に至らず共に倒れし塚上の老松を売却して、現在の碑建てり。(行家とあるが)塚は行家の墓にあらず、顕家の墓なるを、村民『あ』を『ゆ』に誤りて、行家の墓と伝えしものか。顕家の戦没地なれば、顕家の墓なり」
◎なお、詳細については北畠顕家保存会副会長の仲井省三氏が詳しくお話をしてくれますので石津に来られた際にはご連絡下されば幸いかと思います。
ご連絡先は、サイトの作成者のアドレス([email protected])まで書き込みをしてくださいませ。やたら中傷的な事柄での書き込みは削除しますので歴史的や文化的にも大切な所なのですのでどうかご理解・ご協力をお願いいたします。
◎追加分(Web歴史街道)サイトより抜粋。
◎延元3年/建武5年5月22日(1338年6月10日)、北畠顕家が討死しました。南朝方の若き名将として知られます。
◎顕家は文保2年(1318)、貴族の北畠親房の嫡男に生まれました。権中納言(当時)の父・親房を後醍醐天皇は篤く信任しており、顕家も4歳にして従五位下に叙位されたのをはじめ、昇進を重ねます。鎌倉幕府が倒れて建武の新政が始まった元弘3年(1333)には、16歳にして従三位陸奥守となりました。その2年前の14歳の時、北山第に行幸した後醍醐天皇が花の宴で自ら笛を吹き、顕家が陵王を舞ったという記録があり、後醍醐天皇から寵愛されていたことが窺えます。
◎建武元年(1334)、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて父とともに陸奥へ下向、多賀城を拠点に陸奥経営を始めました。同年、従二位に叙位、翌年には鎮守府将軍に任ぜられています。 建武2年(1335)、足利尊氏が鎌倉で後醍醐天皇に叛旗を翻して京に迫ると、これを討つべく顕家は陸奥の軍勢を引き連れて南下、僅か3週間で近江まで進出します。そのペースはあの羽柴秀吉の中国大返しを上回るといわれ、まさに神速。そして楠木正成、新田義貞らとともに、足利軍を撃破して京都より追いました。尊氏は一旦丹波に落ち、態勢を立て直して翌年1月、再び上洛しようとしますが、摂津の豊島(てしま)河原でまたも顕家、新田、楠木に敗れ、九州に落ち延びることになります。
◎同年3月、権中納言、鎮守府大将軍に任官した19歳の顕家は陸奥多賀城に戻りますが、陸奥でも足利方による騒乱が起こり、建武4年(1337)、顕家は拠点を多賀城から霊山に移しました。そして陸奥鎮静に追われる中、後醍醐天皇より上洛要請が届きます。九州から東上した足利尊氏によって、またも京都が奪われたのでした。顕家は再び上洛軍を興して南下、利根川で足利勢を破って新田義貞の息子・徳寿丸(義興)と合流し、義良親王を奉じて足利義詮らの拠点・鎌倉を攻略します。この顕家軍に、後醍醐天皇から恩赦を受けた北条時行(最後の執権・北条高時の息子)の軍勢も加わり、翌暦応元年(1338)1月、鎌倉を発した顕家は東海道を敵と戦いながら美濃へと駒を進めました。
◎これに対し足利方は土岐頼遠を中心に軍勢を集め、青野原(現・大垣市)で両軍は激突、顕家は足利方を打ち破り、敵主将の土岐が一時行方不明になるほどの大勝を収めました。しかし京都にいた足利尊氏は、青野原の敗報に即座に新手の大軍を差し向けたのに対し、顕家軍は疲弊しており、顕家は新たな戦いを避けて伊勢に赴き、態勢を整えることにします。 危ういところで窮地を脱した尊氏は、高師直に大軍を預け、顕家軍に差し向けました。一方、顕家は伊勢から伊賀、大和へと進みますが、大和の般若坂の戦いで足利方に敗れます。
◎その後、河内から和泉へと転戦しつつ戦力を回復させ、天王寺に集結。石津・堺浦方面で足利方と戦っていたところへ高師直軍が到着し、5月22日、堺浦で両軍は激突します。顕家軍は健闘しますが、予定していた援軍も間に合わず、ついには手勢200騎となって奮戦した末に討死しました。享年21。この若さで、あたら大器を散らせたことは惜しまれます。
◎ところで顕家は死の数日前、後醍醐天皇を諫める書状を送っています。それは7カ条から成り、京都ばかりを重視するのではなく地方政治を重んじること、諸国の租税を3年止め、民心を安んじること、官爵の登用は慎重にし、恩賞は公平を期すこと、朝令暮改は避け、余計な者を政治に口出しさせぬことなど、後醍醐天皇にとっては耳の痛いことばかりでした。そして「この諫言を容れて頂けぬ場合、自分は天皇のもとを辞す」とまで、顕家は記しています。先の見えぬ戦いが続く中、せめて後醍醐天皇の政治が、自分が身を捨てるだけの価値のあるものであってほしい、そんな若き顕家の叫びが聞こえてくるようです。
北畠顕家戦死の地道順1
堺市西区浜寺石津町中3ー12ー12 フラワーショップ風花
北畠顕家戦死の地でフラワーショップ風花店のご協力により月2回献花を頂いております。お立ち寄り際にはお買い求め頂ければ幸いかと思います。詳細地図も掲載しておりますのでよろしくお願いします。
◎石津川駅ショップ南海の中を通り抜け出て直ぐに左手を徒歩4分ほどです。
◎更なる詳細図はgooタウンページやgoogle map検索にて検索して頂くとお店迄の道順が判明致します。
北畠顕家五輪塔 画像
◎平成27年5月22日、北畠顕家没後678年説明板設置記念慰霊祭を天候にも恵まれ無事に執り行う事が出来ました、今年は北畠顕家説明板設置後という事で慰霊祭との兼ね合いにて記念慰霊祭として多数の方々に参加して頂き恙無く式典が進み、無事無事故で終える事が出来ました。
平成27年8月22日・23日にかけて行われた北畠顕家 万燈篭供養祭の北畠顕家供養塔前で撮影いたしました。当日の8月23日台風の影響で風が強く、司会進行役の仲井省三氏の説明が少し聞き取りにくいかったかと思います。
北畠顕家、鎮守屋敷画像
鎮守屋敷(北畠顕家供養塔)大阪府全志より
石津川太陽橋の南詰なる紀州街道の側に鎭守屋敷といへるあり、東西貳間・南北四間にして、高さ參尺饐の角石に「南無阿彌陀佛」と題し、背面中央に「行家」、側面に「正徳三年癸巳年四月十七日」と刻せり。其の地は從來除地たりし所にして、浄念寺所藏延寳七年三月八日の檢地帳に、「八歩東西貳間南北四間鎭守宮屋敷、但し宮建なり、是は文祿四年柴田新兵衛檢地にも除候に付、往古之通除之」とありて、小祠の存せしこと見ゆるも、寛政四年領主に提出したる明細書に、「鎭守屋敷東西貳間南北四間、此反別八歩」とあるのみにて小祠のこと見えざるは、正徳年中颶風の爲めに倒壊せしに依る。當時建祠取締の嚴なる際なりしを以て、祠は終に再建に至らず、祠と共に風に倒れし塚上の老松を賣却して建てられしは即ち現在の碑にして、其の記せるが如く行家の墓なりと里傳し來りしも、塚は行家の墓にあらずして顯家の墓なるを、村民に一丁字なく、顯家のあを行家のゆに誤りて、かくは行家の墓なりと傳へしものなりとの説あり。思ふに本地附近は顯家戰歿の所なれば、其のいへるが如く顯家の墓なるべし。之に關し星野文學博士の意見あれば、左に其の全文を掲記して讀者の參考に資せん。