1338年5月22日堺浦にて北朝と南朝が合戦場となった場所(石津の戦い)とも言われています。 下記の図は石津の戦い又は堺浦の戦い絵図
北畠顕家戦死に至る経緯
◎北畠顕家 石津の戦い・堺浦の戦い
◎北畠顕家は、鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・武将。准三后北畠親房の長男。
後醍醐天皇に寵愛されてスピード出世をし。建武の新政下のもと、16歳で陸奥守(むつのかみ)となり、鎮守府将軍となって陸奥国に下向したが、足利尊氏が建武政権に叛したため、後醍醐天皇の皇子・義良親王を擁して奥州に下り、35年(建武2年)、足利尊氏の離反とともに,奥州軍を率いて上洛し、尊氏を九州に追うなどした。やがて任地に戻るも、足利尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討伐するため西上し延元3年/建武3年(1338年)5月22日(6月10日)、
◎ 北畠顕家軍は和泉で奮戦していたが、これに対して顕家討伐に向かった高師直は、5月16日に天王寺から堺浦に向かって出陣した。そして、5月22日に堺浦で両軍は激突した(石津の戦い)。顕家軍は善戦したものの連戦の疲労に加えて、北朝方についた瀬戸内海水軍の側面支援攻撃を受けて苦境に立たされる。そのうえ、予定していた味方の援軍到着遅延も相まって、この戦いでは劣勢に回り顕家軍は敗走しました。
◎その後、顕家は共廻り等二百騎とともに石津で北朝方に包囲された。残り少ない顕家軍は決死の戦いを挑み尚も奮戦したが、顕家は奮戦中に落馬してしまい、ついに討ち取られた。享年21という若さだった。顕家の他、彼に随行していた名和義高・南部師行らも戦死した。
◎死後編集
北畠顕家の死によって、南朝は7月の義貞の死と相まって大打撃を受けた。その一方で、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になった。
◎だが、船団はその途中に暴風雨に巻き込まれ、顕信は義良親王とともに伊勢へ戻ったが、親房は常陸にたどり着き、北朝方と戦った(常陸合戦)、
◎しかし、興国4年/康永2年(1343年)11月、親房は常陸を捨て吉野へと向かった。一方、伊勢に戻った顕信は翌年に再び陸奥へと向かい、顕家が拠点としていた霊山城を中心に活動した。だが、正平2年/貞和3年(1347年)霊山城が落城するなど、南朝勢力は次第に逼迫していく。観応の擾乱によって起こった北朝側奥州管領の対立に乗じて多賀国府を一時占拠するものの翌年には奪い回され、南朝勢力の回復には至らなかった。
◎嫡男である顕成は、顕家の子ということもあって南朝からは相当厚遇されたとされるが、出家して『太平記』の一部を執筆・校閲をしたとも、奥州にとどまり浪岡北畠氏の祖となったとも、九州に下向して懐良親王に従軍したともされ、事跡が明確でない。一方、次男である師顕の系統は時岡氏となったという。
※文化14年(1817年)、松平定信が顕家の慰霊するために霊山に霊山碑を建てた。
◎明治維新後、北畠顕家の父親房が著した『神皇正統記』を先駆とする皇国史観が「正統な歴史観」として確立していくと、南朝に忠誠を尽くしてきた顕家、新田義貞、楠木正成らが再評価されるようになる。
◎1885年(明治18年)には別格官幣社に列せられ、建武中興十五社の一つとなった。
北畠顕家その後の経緯
◎北畠顕家の正室ついて
北畠顕家の正室は何人かはいたようですが特に誰が正室かは定かではありませんが有力視されているのが日野資朝(ひのすけとも)の娘が有力視とされています。北畠顕家の死を悼み戦死の地を訪れた際に歌にして残しています。
※あべ野を過させ給ひけるに、ここなんその人の消えさせたまへる所とつげければ、草のうへにたふれふせ(倒れ伏せ)たまふて、
※なき人の かたみの野辺の草枕 夢もむかしの 神の白露
此の歌は2015年12月24日付けの産経新聞のオピニオンというページに北畠顕家に関して掲載されていました。
北畠顕家戦死の地の碑文解説
北畠顕家 戦死の慰霊碑 石碑文 文字
石碑碑文
○○○○鎮守府大将軍源顯家公ハ村上天皇ノ皇子具平親王第十二世ノ孫准后源親房公ノ○○○ル、延元二年顯家公勅命ヲ奉ジ逆賊足利高氏ヲ討ッテ京都ヲ奪回セント奥州
糠部(ぬかのぶ)郡ノ精兵ヲ率ヰテ再ビ西上ノ途ニ就キ各地轉戰シテ賊軍ヲ破ッタ、
然ルニ翌三年三月十六日摂津阿倍野ノ戰ニ惜シクモ敗レ、僅カニ棧兵ヲ率ヒテ和泉ノ國観音寺ニ據ラレタ、ヤガテ五月十六日賊将高師直ノ軍堺浦ニ陣シタノデ、二十二日官軍ハ進撃シテ激戰數刻ニ亙ッタガ利ナク顯家公ヲ始メ武石高廣名和義高村上義重公等石津ニ壮烈ナ戰死ヲ遂ゲラレタ、顯家公時ニ年二十一、
甲州波木井梅平ノ城主南部師行公亦東奥ノ精兵二千ヲ率ヰテ従軍シタガ顯家公ノ戰死ヲ知ルヤ僅カニ殘ル一族郎党百八人ト共ニ敵陣ニ斬リ入ッテ亦悲壮ナ戰死ヲ遂ゲラレタ 此ノ戰賊軍一万八千、官軍僅カニ三千、思ヘバ去年八月國ノ出テカラ行軍三百五十里十月長キニ亙ッタ後テアッタガ将兵ヨク戰ヒ遂に力竭キ石津ノ原ニ護國ノ神ト鎮リ給フタノデアル今年ソノ六百年ニ當リ追福ノタメ町有志ハ塔ヲ造立シ今日身延山法主望月大僧正御親脩本宗大阪府下寺院参加ノ下ニ開眼供養ト六百回忌大法要ヲ執行シタ
※注訳
今年はその六百年に當り追福のため塔を造立し北畠顕家公没後六百年目の節目を迎える日にあたるために此の地に身延山久遠寺より望月大僧正猊下及び大阪府下寺院(日蓮宗)の僧侶、参列者の中には史跡研究家や地位の高い人達も参列され盛大なる大法要を執り行ったとあります。
昭和十二年六月二十七日 実長三十六世 師行三十三世 男爵南部日實書(赤字は推定文字、○は不明文字)(南部師行は奥州八戸根城を築城した)
鎭 守 屋 敷(源顕家の墓)(大阪府全志より)
石津川太陽橋の南詰なる紀州街道の側に鎭守屋敷といへるあり、東西貳間・南北四間にして、高さ參尺饐の角石に「南無阿彌陀佛」と題し、背面中央に「行家」、側面に「正徳三年癸巳年四月十七日」と刻せり。其の地は從來除地たりし所にして、浄念寺所藏延寳七年三月八日の檢地帳に、「八歩東西貳間南北四間鎭守宮屋敷、但し宮建なり、是は文祿四年柴田新兵衛檢地にも除候に付、往古之通除之」とありて、小祠の存せしこと見ゆるも、寛政四年領主に提出したる明細書に、「鎭守屋敷東西貳間南北四間、此反別八歩」とあるのみにて小祠のこと見えざるは、正徳年中颶風の爲めに倒壊せしに依る。當時建祠取締の嚴なる際なりしを以て、祠は終に再建に至らず、祠と共に風に倒れし塚上の老松を賣却して建てられしは即ち現在の碑にして、其の記せるが如く行家の墓なりと里傳し來りしも、塚は行家の墓にあらずして顯家の墓なるを、村民に一丁字なく、顯家のあを行家のゆに誤りて、かくは行家の墓なりと傳へしものなりとの説あり。思ふに本地附近は顯家戰歿の所なれば、其のいへるが如く顯家の墓なるべし。之に關し星野文學博士の意見あれば、左に其の全文を掲記して讀者の參考に資せん。
北畠顕家関係・補足
※ 北畠顕家についての補足
浪岡北畠氏●笹竜胆/丸の内に割菱
●村上源氏北畠氏流北畠顕家を祀る霊山神社は「笹竜胆」を家紋としており、ご子孫の北畠誠悟様からも「笹竜胆」との情報をいただいた。また、『応仁武鑑』では行岳(浪岡)氏の家紋は「笹竜胆車」となっている。一方、『姓氏録』には「北畠氏、幕紋は割菱也」とあり、伊勢の北畠氏は割菱を用いていた。そして、浪岡氏の子孫では「丸の内に割菱」を用いる家が多いという。
⚪️ 中世の津軽郡浪岡に拠って「浪岡御所」と称された浪岡北畠氏は、南北朝時代初期に奥羽南朝方の中心人物として活躍した北畠顕家の後裔と伝えられている。いわゆる村上源氏ということになる。
⚪️ 鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、元弘三年(1333)、東国武士の勢力基盤である奥州・出羽を鎮撫する任に義良親王を任じ、北畠親房・顕家父子にこれを補佐させた。顕家は従三位・陸奥守に叙任され、元弘三年十月、義良親王を奉じて陸奥へ下向した。一方、京では後醍醐天皇の親政による建武の新政が発足した。
⚪️ 奥州に入った北畠顕家は多賀城を国府とし、結城宗広らの協力を得て行政組織をつくると、新政の実現にあたった。しかし、新政の打ち出す政策は多くの人に不満を与え、恩賞沙汰は何の手柄もない公卿や社寺が優先されるなど、倒幕に活躍した武士たちは次第に新政への失望を募らせていった。
◎新政の崩壊と顕家の戦死
⚪️ 武士たちの輿望は足利尊氏に集まるようになり、天皇も尊氏の存在を警戒するようになった。そのような建武二年(1335)、北条氏残党による中先代の乱が起り、鎌倉が反乱軍に制圧された。反乱軍の鎮圧を命じられた、尊氏は天皇に征夷大将軍の宣下を請うたがそれは許されなかった。そのため、尊氏は宣下を得ないまま、東国に下ると反乱軍を撃破して鎌倉に入った。以後、尊氏は鎌倉に居座り、天皇の召還命令も無視して、みずからに味方した武士たちに論功行賞を行った。
◎天皇は新田義貞を総大将とする尊氏討伐軍を下したが、箱根竹ノ下の合戦において、討伐軍は大敗を喫した。尊氏は逃げる新田軍を追って上洛すると、たちまち京都を制圧した。かくして、新政は崩壊し、時代は南北朝の争乱へと移行していくことになる。
◎奥州の北畠顕家は西上する足利尊氏を追撃すべく義良親王を奉じて出陣、顕家軍には結城・伊達・南部氏らが参加して、連戦のすえに京都に入り足利尊氏を九州へ追いやったのである。その後、鎮守府将軍に任じられた顕家は陸奥に帰ったが、尊氏の任じた奥州管領斯波家長らの活躍もあって、奥州では尊氏方に寝返る者が出て分裂状態をきたしていた。ついに顕家は多賀国府を維持することが困難となり、伊達郡の霊山に移り尊氏方と対峙した。
◎一方、九州に下った尊氏は、九州官軍と多々良浜に戦い大勝利をえると太宰府に入って九州の経略にあたった。体制を整えた尊氏は、九州武家方の諸将を率いて海陸から京都を目指した。尊氏は湊川の合戦に楠木正成を討ち取り、新田義貞を撃破してふたたび京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に逃れて朝廷を開き、尊氏は光明天皇を立てて足利幕府を開いた。
◎後醍醐天皇から京の回復を命じられた北畠顕家は、ふたたび義良親王を奉じ、結城宗広・二階堂行朝・伊達行朝・葛西清貞・南部師行らを従えて京を目指した。北畠軍は行く手をはばむ斯波家長を鎌倉で撃破すると、そのまま西上を続け、美濃青野原で幕府軍と戦いこれを撃ち破った。まさに、破竹の勢いであったが、幕府軍の巻き返しを懸念した顕家は、軍を伊勢に転進した。ついで大和に移動して奈良般若坂で高師直軍と戦って敗戦、河内へ逃れた。そして、延元三年(1338)五月、高・細川軍と摂津阿倍野で戦い、和泉国石津で壮烈な戦死を遂げた。このとき、南部師行らも顕家とともに討死し、奥州軍は壊滅した。
◎南北朝の動乱
⚪️ 顕家は戦死したとき、二十一歳の若武者であった。わずか十六歳で奥羽経営の重責を担い、一貫して後醍醐天皇への忠義を貫き、政戦に非凡な才を見せた。
※ところで、顕家は戦死する七日前に後醍醐天皇に諌奏文を出していた。その諌奏文の中で顕家は、建武新政の重税を批判し、天皇の恣意的な政治姿勢や側近や女官らの専横を諌めている。さらに、みずからの陸奥での経験を踏まえて、地方に将軍府(小幕府)的機構を整備することを進言している。顕家は現実を的確に捉え、将来への展望を有していたことがうかがえる。その死は、まことに早すぎるものであったといえよう。
◎奥羽の経営にあたった北畠顕家は、北条氏に関わる所領をすべて没収し、奥州所領を奥州武士のものとして保証した。また陸奥守・鎮守府将軍として、蝦夷沙汰や出羽および北関東諸国にまで関与する文書を発給している。そして、発給文書は陸奥国宣という形式ではなく、鎮守府将軍御教書を多く用いていた。顕家が上洛したときの職権も鎮守府将軍を前面に出しており、顕家に従った奥州の武士たちも将軍府機構を受け入れていたとみて間違いないだろう。いまも、北畠顕家が発給した文書を大切に保存している家が存在し、奥州武士の子孫たちが顕家の存在を重くみていたことが知られる。
◎この将軍府機構は、その後、征西将軍宮として九州に下された懐良親王が踏襲している。懐良親王は、菊池氏の協力を得て九州武家方を制圧すると、太宰府に入って征西将軍府を立てると、九州南朝方の全盛時代を現出した。一方、幕府も奥州管領制を整備しようとしたが、観応の擾乱などがあって迷走した。
◎北畠顕家が戦死したのち、弟の顕信が陸奥介・鎮守府将軍に補され、父親房とともに義良親王を奉じて伊勢より東国に向けて船出した。ところが、一行は大風にあって散り散りとなり、義良親王は伊勢に漂着した。その後、陸奥に入った顕信は南朝方の中心として、南部氏、伊達氏、田村庄司らの支援を得て宇津峰城に入り北朝方に対峙した。しかし、興国四年(1343)常陸国の南朝方が壊滅すると、正平二年(1347)宇津峰城も北朝方の総攻撃を受け落城し、北畠顕信は北奥に奔った。
◎やがて、尊氏と直義兄弟の不和が嵩じて、正平六年(観応二年=1351)に「観応の擾乱」が起こると、顕信は多賀国府奪還作戦を開始した。多賀城攻略に成功した顕信であったが、翌七年(1352)には吉良貞家の率いる北朝勢に奪還されてしまった。顕信はふたたび宇津峰城に立てこもり、一年余にわたって北朝方の攻撃に耐えたが、ついに正平八年五月宇津峰城は落城した。宇津峰城は徹底的に破却され、顕信は出羽藤島城に撤退し、奥州南朝方の勢力は大きく後退した。
浪岡北畠氏の系譜─考察
⚪️ さて、浪岡北畠氏は、北畠顕家の子孫とするのが通説である。しかし、浪岡北畠氏の系図に関しては、いずれも近世以後に作成されたもので、それぞれ真偽のほどは判然としないものばかりである。
※『尊卑分脈』の北畠氏系図を見ると、北畠顕家の系として顕成─親成が記されている。そして、『津軽郡中名字』など浪岡天文記をはじめ、近世に記述された『東日流記』『新羅之記録』、幕末期に水戸で編纂された『応仁武鑑』らはいずれも北畠顕家の子孫説を採っている。いずれも親房から顕家─顕成─親成は一致しているが、それ以後、天正六年(1578年)に浪岡御所が滅亡するまでの人名や系譜はばらばらで、その出典も不明というものばかりである。
⚪️ 浪岡北畠氏の系譜に関しては、山科言継が著わした『歴名土代(れきめいどだい)』に、具永・具統・具運の三名が記されている。山科言継は戦国時代を生きた公卿であり、言継は浪岡北畠氏の叙爵任官のために奔走したことが知られる。その関係から、浪岡北畠氏の戦国時代における三代の当主の名が記録に残されたのである。
◎これらのことから、『尊卑分脈』に見える顕家─顕成─親成の三代と、戦国時代の具永─具統─具運の三代は実在の人物とみていいのではないか。とはいえ、顕家の流れが、そのまま具永に続いたと断定する史料があるわけではない。
◎一方、浪岡北畠氏の系譜を顕家の弟顕信の子孫とする説もある。水戸藩が編纂した『大日本史』の「親房伝」に「守親為陸奥国司、子親能、其子孫在陸奥出羽者称波岡氏、襲国司号」とみえ、顕信子孫説に大きな影響を与えている。守親は顕信の子であり、『尊卑分脈』には顕信─守親─親能の系譜が記されている。その他、諸説がなされており、浪岡北畠氏の系譜をたどることは、いまとなっては不可能というしかない。
北畠氏の浪岡入部
⚪️◎北畠氏が浪岡に入部したのは、一説に霊山城が落ちたとき、北畠顕家の嫡子顕成は叔父の顕信とともに北奥羽に逃れたときだという。一方、顕家の死後、顕家の子顕成・孫顕元は南部氏に庇護されて稗貫の船越に住み、のちに浪岡に移ったともいう。また、『応仁武鑑』の「浪岡記」によれば、鎮守府将軍藤原秀衡の末子頼衡が津軽の外ケ浜に逃れて行岡(浪岡)に住み、行岡氏を称した。その曾孫行岡右兵衛大夫秀種は顕家に仕え、娘が顕成を生んだ。顕家の死後、顕成は外祖父右兵衛大夫を頼り、のちに所領を譲られたことが浪岡北畠氏の始まりとする説もある。
◎ついで、北畠氏が浪岡に移った時期については、建徳年間(1370~71年)の守親入部説、文中年間(1372~74年)の顕成入部説、元中年間(1384~1392)の親統入部説、応永年間(1394~1427年)の顕実説などがある。さらには、戦国時代の大永年間(1521~27)に天龍丸が入部したとする説まであり明確ではない。
◎浪岡北畠氏の初代になったという顕成の娘は、十三湊安東太郎貞季の妻になったといわれる。また、糠部南部氏は一貫して南朝方として行動し、北畠氏を庇護してきたが、その後南部氏は幕府に帰順した。そのため、公然と北畠氏を庇護することができなくなり、浪岡へ一行を移したのだという。このとき、浪岡(行岡)で顕成父子を迎えたのが顕家の娘を妻にしていた安東貞季であったという。
◎明徳三年(1392年)、南北朝が合一なったのち、北奥羽で勢力を築いたのは、糠部南部氏と下国安東氏であった。糠部南部氏は三戸・七戸などの南部一族の惣領的立場にあって、北奥から出羽国仙北まで勢力を拡大しつつあった。一方、下国安東氏は、十三湊を本拠として津軽、出羽国河北・小鹿島・秋田にまで勢力を及ぼそうとしていた。
◎幕府はこの北奥羽の二大勢力に対して、奥州探題斯波氏をもってあたらせたが、加えて、両家と深い関係を有する浪岡御所北畠氏を利用して、北畠氏を軸とする一定の秩序を作り上げようとしたとも考えられる。さらに、北畠氏は官途推挙権を持っていたようで、武将というより公家的な側面を有する「御所」として認識されていたようだ。このような立場をもって浪岡北畠氏は乱世を生き抜いたが、その初代が誰であったのかは杳として分からないのである。
◎ 津軽郡に勢力を築く
⚪️ 浪岡に入部した北畠氏は、はじめ東山根にある城館にいたと考えられている。やがて、十五世紀後半(応仁のころ)の顕義の代にいたって浪岡城を築き、そこを本拠として勢力の拡大につとめた。
◎浪岡北畠氏で特筆されるのは、その叙爵のありかたである。武家の場合、将軍や守護の官途推挙を経て叙爵するのが例であったが、浪岡北畠氏の場合、公家の山科言継を介して叙爵を受けている。しかも、初爵とともに侍従任官されているのである。このことは、浪岡家が奥羽の有力武将として認識されながら、貴族社会の一員として扱われていたことを示している。浪岡家の居館が御所と敬称され、「大御所」・「北の御所」・「浪岡御所」とよばれた所以である。
◎一方、浪岡北畠氏は伊勢北畠氏との関係も注目される。伊勢北畠氏は伊勢国司に任じ、また幕府からは守護職に補任され、伊勢にありながら貴族身分として遇され、武家としても重視されていた。『歴名土代』にも、伊勢北畠氏と一族の叙爵に関する記事が目立ち、浪岡北畠氏との関係を感じさせている。
◎また、浪岡と伊勢の北畠氏の実名を見ると、それぞれ初期は「顕」を名乗りに用いている。幕府に帰順したのちの伊勢北畠氏は将軍の偏諱を受けたが、晴具以後「具」を名乗りに用いるようになった。一方、浪岡北畠氏をみると顕具のときから代々の当主は「具」を名乗りに用いている。「歴名土代」にみえる北畠晴具と浪岡具永は同世代の人物であり、浪岡具永は北畠晴具から偏諱を受けたものと思われる。浪岡北畠氏の出自に関しては不明点が多いが、伊勢北畠氏との関係から北畠親房の子孫であることは間違いないようだ。そして、伊勢北畠氏とのつながりを背景にみずからの立場を強化していたと考えられるのである。
◎ 具永─具統─具運の三代は、文字通り戦国時代であり、浪岡氏も津軽地方の支配を強化することに尽力した。当時の浪岡氏の勢力を知るものとして、天文年間(1532~54)に北畠具信によって作成された『津軽郡中名字』がある。それによれば、「都遐流(ツカル)の大名は、鼻和郡は大浦の屋形南部信州盛信と申すなり。平賀郡は大光寺南部遠州政行と申すなり。田舎郡・奥法郡には伊勢国司浪岡御所源具永卿なり。」と記されている。
◎南部信州盛信は大浦氏二代信濃守盛信、南部遠州政行は三戸南部氏通継の弟経行で大光寺城主遠江守政行、そして、浪岡御所源具永は北畠氏六代の具永である。永享四年(1432)に安東氏を駆逐した三戸南部氏の津軽支配は十六世紀の初頭には確固たるものとなり、浪岡御所北畠氏は津軽の北部と東部・南部の山沿いにかけて郡中のおよそ半分を支配していたことがわかる。
※『永禄日記』には、文亀年間(1501~04)以降、津軽地方の政務はすべて北畠氏が執ったといい、それは北畠氏の五代顕具・六代具永の時代であった。とくに、左中将の官位をもつ具永は、浪岡北畠氏歴代のなかでもっとも威を振るい、勢力があったと伝えられている。
◎ 川原御所の変
⚪️具永は朝廷から官位を受けることに執着し、それを勢力保持に利用して一門の発展につとめ、弘治元年(1555)に没します。北畠氏は津軽地方に一定の勢力を有したとはいえ、北奥の大勢力である南部氏に対しては無力な存在であった。とはいえ、具永のあとを継いだ具運は油川の熊野権現宮や今別の八幡宮、猿賀の権現堂、浪岡の京徳寺など寺社の修築に尽力し、京都の文化を津軽にもたらし、浪岡周辺の寺社や年中行事などに少なからぬ影響を残した。しかし、具永の寺社修築事業は浪岡北畠氏の財政を逼迫させる一因ともなったようだ。やがて、永禄五年(1569)「川原御所の変」が起こった。
◎川原御所は、顕家の甥にあたる守親が宗家四代顕義が幼少であったため、その後見役として浪岡に入り川原に御所を構えたことに始まるという。しかし、既述のように守親の動静に関しては不明な点が多く、その系譜も守親の子親能以後は不明となっている。浪岡北畠氏の菩提寺である京徳寺の過去帳によれば、六代具永の次男具信が川原にはいって、川原御所を復活したとある。
◎川原御所具信は、永禄五年正月、子顕重をともなって新年の挨拶と称して浪岡御所を訪ね、突然具運に斬り掛かりこれを殺害した。同時に具信・顕重父子も、駆け付けた顕範・顕忠父子に討ちとられ川原御所は滅亡した。この事件の原因となったのは、具運が弟顕範を滝井の地に分封したが、同地は川原御所の領と境を接していたことから川原御所北畠具信との間で領地争いになったのだという。この騒動により、浪岡北畠氏に仕える有能な武士たちが主家に見切りをつけ、浪人したり他家に仕える者が続出したという。川原御所の変によって、浪岡北畠氏の衰退は決定づけられた。
◎浪岡北畠氏の衰運を立て直そうとしたのが、具運の弟で滝井に分封された顕範とその一族であった。具運が川原御所父子に殺害されたとき、ただちに駆け付けた顕範父子は川原父子を討ち取って騒動を鎮圧した。騒動後、諸士が主家を去って行くなか浪岡北畠氏に最期まで忠節を尽くした。
○事件のとき、御所の子三郎兵衛、川原御所の子虎五郎ともに幼少であったために、顕範は二人を引き取って兄弟同様にして養育したという。両人成長のあと、三郎兵衛は顕村と名乗り、顕範はこれに娘を嫁がせて大御所を継がせた。一方、虎五郎には顕信(利顕とも)と名乗らせ、水木館主とするなど浪岡の衰運回復に努めた。
○顕村は一名に具愛ともいった。戦国時代に身をおきながら、家柄を誇り公家の風を好むという人物で、時世を見る目に欠けていた。このような顕村であってみれば、衰運にある浪岡北畠氏が時代を乗り切ることは至難のことであったといえよう。
◎ 津軽争乱と浪岡御所の滅亡
ところで、顕村が浪岡御所の家督を継いだころの津軽地方は、南部氏が郡代南部高信を石川大仏ケ鼻城において支配していた。それを大浦城の南部信州為則、大光寺城の南部左衛門尉、浅瀬石城の千徳隠岐守らが補佐するという体制で、南部氏の津軽支配は磐石であった。
◎ところが、大浦為則のあとを継いだ為信は、南部氏から独立して津軽地方を掌握しようとの野望を抱くようになった。為信は浅瀬石城の千徳氏と同盟を結び、元亀二年(1571年)為信は突如石川大仏ケ鼻城を襲撃し郡代高信を自害に追い込んだ。ついで、天正二年(1574年)には大光寺城を攻略、為信は津軽平定を企図して一方的な活動を開始した。
◎かくして、津軽地方はにわかに騒がしくなってきた。浪岡御所では顕村をよく補佐してきた顕範が死去し、子の顕忠が父のあと継いで浪岡の政務をとっていた。しかし、その顕忠も天正六年(1578)に没し、そのあとを顕則が継いだ。同年七月、顕則が所用で外ケ浜に赴いた留守を突いて、津軽為信が浪岡に侵攻してきた。急報を受けた顕則は若干の手兵を率いて津軽勢に斬り込もうとしたが諌められて果たせず、入内山に隠れていた顕村の妻と二人の子を助け出し、再起を期して野辺地へ落ちていった。
◎こうして、津軽為信に攻められた浪岡城は一挙に壊滅、顕村は西根の禅寺に連行され自害させられた。享年、二十一歳の若さであった。このとき、水木館主の利顕は、一族の多くが戦死するなかで、ようやく危地を脱し大浦為則に救われた。その後、津軽氏に仕えた利顕は、翌天正七年(1579年)に六羽川の戦いで戦死したと伝えられる。
◎ 大浦為信の津軽略奪
◯ところで、浪岡御所の落城と北畠氏の没落に関して、南部側の記録では天正十八年となっている。南部側の史料では、高信は天正九年(1581年)まで存命し、石川城で病没したと為信の石川城奇襲を否定している。高信の嫡子信直は三戸南部氏宗家の晴継の娘を娶ってその養子となり、津軽郡代は次男の政信が継いだ。津軽郡代となった政信は石川城から浪岡城に移って政務を執ったといい、浪岡御所北畠氏は内紛がつづいて天正六年に自滅したのだという。
◎そして、残された浪岡城や領地は南部氏の管理下にあったとしている。郡代政信の下には、大光寺・千徳・大浦為信の三氏が補佐役として存在し、まもなく千徳氏が死去すると、野望を逞しくした大浦為信は讒言して大光寺を追放し、ついで食中毒にみせかけて政信を毒殺したのだという。
◎一方、『南部根元記』の「津軽騒動の事」には南部氏の津軽掌握を安信の時代とし、弟高信を津軽郡代として石川城に置き、高信は南部晴政のころまでその職にあって、よく津軽全域を支配したとある。このように、浪岡氏の滅亡を含む津軽地方の戦国後期に関する記録は、南部側と津軽側とでは著しい食い違いを見せている。
◎南部系の史料が語るように、為信が浪岡城を攻撃し北畠氏が滅亡したのが天正十八年であったとするなら、この年は豊臣秀吉が小田原北条氏を攻め、為信は小田原に参陣して津軽一円の支配を認められた。一方、南部信直も秀吉のもとに参陣したが、すでに為信は謁見をすませたあとで、信直は為信を謀叛人と申し立てたが、津軽領を回復することはできなかった。
◎津軽地方を略奪されたカタチとなった南部氏にしてみれば、津軽氏に対していい感情をもてるはずもなく、津軽氏の主張を否定しつくしたとも考えれられる。さらに当時の情勢からみて、為信が天正十八年に浪岡御所を滅ぼし、そのすぐあとに小田原に参陣したとは考えにくく、南部側の記録には疑問が残るといえよう。やはり、浪岡北畠氏の滅亡は、天正六年のことであったと考えるのが自然なようだ。
※ 余談ながら、江戸時代を通じて両家は犬猿の仲であったが、為信の津軽略奪がその原因であった。
◎ その後の北畠一族
いずれにしても、名族北畠氏は大浦為信によって滅亡させられたことは間違いのないところだ。その後、難を逃れた顕則は南部氏に仕えて岡氏を名乗った。その弟慶好は、安東(秋田)氏に仕え、家老職としてこれも浪岡氏を名乗った。そしてもう一人の弟顕佐が、顕村の娘と結婚し浪岡北畠氏宗家当主となり、館野越に隠棲し江戸時代山崎氏を称して子孫は相続いた。明治十五年北畠氏に復姓して、今日に至っている。・2005年7月7日
・家紋=「丸の内に割菱」/「笹竜胆車」
北畠顕家の経歴
◎延元元年/建武三年 (1336) 、「足利勢」を「鎌倉」と「京都」で粉砕し、「尊氏」を「九州」へと敗走させた翌年、「鎮守府将軍・北畠顕家」は生涯二度目の「奥州」入りを果たしている。しかし、「瓜連城」の陥落などの情勢の悪化を受けて、延元二年/建武四年 (1337)1月8日 (現・2月9日) 「顕家」は「広橋経泰」らと図って、「陸奥太守・義良親王」 (後の後村上天皇) を「多賀城」の国府から「霊山」に奉じて、山頂付近に「国司館」を設置して国衙とし、防戦体制を固める策に出た (『元弘日記裏書』『保暦間記』) 。しかし、「後醍醐天皇」から「尊氏」に奪還された「京都」を再び奪い返すべく上洛せよとの命が届き、同年の8月11日 (九月六日) 、「顕家」は、体勢を完全に挽回する暇もなく、「伊達行朝」「結城宗広」ら「奥羽地方」の「南朝勢力」と連携しつつ、「親王」を奉じて二度目の上洛を開始する。「北朝方」の一瞬の隙をついての行動であった。この上洛開始まで、この地は「奥州」における「南朝勢力」の総司令基地として機能したのであり、その後も重要拠点として、「北朝」との攻防に明け暮れることとなる。
◎「北畠顕家」は、上洛開始後、数の上での圧倒的な劣勢を跳ね返しつつ、数々の奇跡的な勝利を納めて進軍を続けることになる。四ヶ月に及んだ攻防を経て、十二月下旬には「関東」を実質的に支配していた「小山朝郷」の拠点「小山城」を撃破し、その勢いを駆って「足利義詮 (後の二代将軍) 」の軍勢をも破って、「鎌倉」入りを果たしている。このとき、「奥州」以来の宿敵「斯波家長」を自害に追い込むのに成功している。
◎「利根川」を挟んで「足利義詮」と対戦「巻十九 奥州国司顕家卿并新田徳寿丸上洛事」『太平記絵巻』国立歴史民俗博物館(合戦絵図2参照)
しかし、戦況はその後も休む間を「顕家」らに与えることはなく、翌年一月には、戦備未だ整わぬまま、「顕家軍」は、遮る敵軍を打ち破りつつ、再び上洛・東征を開始して「東海道」を上る身となった。一旦は退いた「足利勢」も、体勢を整え、大挙してこれを追った。
「青野原」にて「土岐頼遠」や「桃井直常」らと激突「巻十九 青野原軍事付曩沙背水事」『太平記絵巻』国立歴史民俗博物館(絵図参照1)
◎一月の終わり頃には、「顕家」らは「美濃青野原 (関ヶ原) 」にて「美濃」の猛将「土岐頼遠」の迎撃を受けるが、後ろから自らがー度は粉砕した「上杉憲顕」軍の挟撃を受けていた「顕家軍」は、火を噴く勢いで、自軍に倍する「足利勢」を撃破する。しかし、ここで「京」まで指呼の距離に迫りながら、都に残る「足利勢」はまだ多く、一方で自軍の戦力の低下が著しかった上、期待していた「北陸」の「新田義貞」軍は到着しなかったため、「顕家」は一旦、父「北畠親房」の拠点であった「伊勢」に転進することを余儀なくされた。
◎ちなみに、『太平記』ではこの「伊勢転進」は、「顕家」が「我大功義貞の忠に成 なら んずる事を猜 そねん で」「北陸勢」との連携を嫌った愚かな行動として難じている。これは強ち虚偽の批難ではないにせよ、当時の「顕家軍」の疲弊を考慮すれば、公平さに欠いた見方であることは間違いない。また、二年前の上洛時には、奮迅の戦いで「尊氏」を「京都」から追ったものの、功績の大部分を「義貞」に取られたと云う事実もある。しかも、その後、「顕家」が「東国・奥州」の防備を固めている間、「義貞」は「尊氏」追撃を怠ったばかりか、都を奪還されてさえいる。それこそ公平に見れば、「義貞」は戦闘を指揮する武将としてはある程度の有能さを発揮していたが、戦局を見通す大将の器では到底なかったのである。「顕家」が「義貞」を嫌ったのは「南朝方」にとっては不運だったが、当人からしてみれば、これはもうやむを得ないことだったのである。さして能力の高くない「義貞」を偏寵した「後醍醐天皇」の失策とさえ云える。
◎しかし、「伊勢」に転進したとは云え、「顕家」らは一ヶ月の休養も許されず、二月下旬には三たび、出陣することとなる。「伊勢」からまずは「伊賀」「奈良」に打って出、さらに北上して「京都」をうかがう作戦だったが、疲弊した「顕家」の軍勢には余力がなく、「足利勢」に「般若坂」で強襲されて敗北を喫し、「河内」へと後退せざるを得なくなった。ここでは「河内」を拠点とする「楠木一族」との連携を図ったが、準備が整わないうちに、またしても「北朝方」の急襲に遭遇して敗退した。
◎この時点で「顕家」の胸の内には、既にある種の覚悟が出来ていたものと推測される。ここまでは常に陣中に奉じてきた「義良親王」を「吉野」に奉還するや、三月には四たび、軍勢をまとめて「天王寺」攻めに身を投じたのである。ここでは、「顕家」らの執念の猛攻を前に、「和泉守・細川顕氏」は散々に打ち負かされることとなった。これを機に、「京都」の「北朝方」は、本格的な大軍を結集させ、「高師直」を大将に、反撃に転じてきた。
◎これ以後も、「顕家」らは、「奈良」などを中心に「高師直」の大軍を相手に、奇跡的にも互角に戦い続け、一進一退の攻防を繰り返すのだが、やがて来るだろう決戦を控えた五月十五日、「北畠顕家」は自らの死を予感してか、「吉野」の「後醍醐天皇」に激烈なる諫奏文を奏上している。
◎そして五月二十二日、運命の「摂津石津川の戦い」が勃発する。この時期、北上する「北畠顕家」の軍勢に対し、「高師直」が南下を開始したため、両軍主力が正面から衝突することとなったのである。「南朝方」は三千、「北朝方」一万八千の圧倒的な不利の中、当初は「顕家」方が優勢を維持したのだが、十ヶ月近くにも及ぶ戦闘と強行軍がもたらした疲弊には打ち勝てず、次第に戦力の差が露呈していくこととなった。
◎各所を突破され、「和泉国堺浦石津」に追い詰められた「顕家軍」は、予定していた味方の援軍到着の遅れのために「高師直軍」との戦いでは劣勢に回り、全軍は忽ち潰走を開始した。「顕家」は共廻り等二百騎を従えてなおも奮戦するも、展望は開けず、「吉野」を目指して「高師直」軍の中央突破を試みるがこれも果たせず、激闘の末、遂に「阿倍野」の地で力尽きた* 。「名和義高」「村上義重」らの諸将も、この戦いで壮絶な討ち死にを遂げた。「顕家」の死を知り、「奥州」から付き従った「南部師行」は、その部下百八名と共に「顕家」に殉じたと伝えられる。
◎一般に「北畠顕家」を若き天才軍略家として褒めそやす風潮が、「南北朝」好きの歴史ファンの間に多いことは承知している。実のところ、筆者もそんな一人なのだろう。しかし、忘れてはならないのは、彼が個人の能力に置いて「軍略」に優れていただけだったなら、彼は数で圧倒する「北朝方」と数次に渡って互角に渡り合うことは出来なかっただろうとも思っている。
◎彼の「後醍醐天皇」への諌奏文の内容を吟味すれば分かるように、「顕家」は戦争そのものよりも、民政の安定に非常な重要性を置いていたのである。「顕家軍」が無類の強さを一時発揮し得たのは、時運はもとより、「顕家」自身のカリスマ的な将器やそれに基づく全軍の士気の高さもあったかもしれないが、やはり彼が自軍の母体となっている「奥州」の武士団を明確に掌握していたと云う事実が挙げられなければならない。「掌握する」と云うのは、ただ「カリスマ」や「人気」があったと云うことでは決してない。
◎彼は十代で「奥州入り」するや、「多賀城」の国府機能を旧幕府の機構に倣って整備強化して、地元での紛糾のいち早い解決に専念すると共に、「北条氏」から没収した「奥羽地方」の郡地頭職などを地元武士団に再分配すると云う改変を断行し、この地方の人々の信頼を勝ち得ていたのである。その上で、「義良親王」を直接推戴していたことは、民心の掌握には絶大な効果があった。何しろ、古来、「親王」ほどの皇族が「東北」の地に来訪すると云うことはなかったのだから。
◎「東国」や地方は、本来、武士の力が強い土地である。そこへ幕府崩壊によって新たな混乱期が訪れていたのであり、地方武士たちにとっては、その混乱を誰が鎮めるのか、そしてそれは自分たちをどの程度益するのか、と云うことが一番の関心事だったはずなのである。特に重要だったのが、彼らが既に得ていた権益の確保である。この状況を整理しない限り、「北朝勢」とは云えども、「南朝」勢力下にない諸地方をまとめあげるのは容易なことではなかったのである。「顕家」の当初の華々しい軍事的な成功は、彼のみがみずからの統治範囲 (奥羽地方) の権益の再分配に成功していたと云う、この一点に大きく拠っていたと筆者は思っている。
◎「顕家」が、その死の直前に天皇に奏上した諫奏文の第一条に、「西府 (九州) 」と「東関 (関東) 」の平定のために有用な人材を派遣し、「山陽」及び「北陸」に「藩鎮」を置くことを強く提言していることからも、このことが彼の意図的な政策として行われていたことは明白なのであり、彼の「軍略家」としての鬼才ぶりは、戦乱の世にあって、むしろこの治世面に着目したと云うことにあると云えよう。
◎彼は第二条に、続けてこのように諌奏する。
諸国の租税を免ぜられ、倹約を専らにすべきこと。連年の兵革、諸国の牢籠、いやしくも大聖の至仁にあらざれば、黎民の蘇息をいたしがたし。今より以後三年、ひとへに租税を免じ、民肩を憩はしめよ。宮室を卑くして以て民を阜にせよ。
◎「顕家諌奏文」より抜粋
「顕家」は、ここでは「仁徳天皇」の故事を引いて、天皇を諌めている。暗に、天皇の大内裏造営計画に発する増税に次ぐ増税は、民心の離反を促進していると云っているのであろう。
◎そして第六条でも、やはり治世面での法令の明確さの重要性を以下のように説いている。
法令を厳かにせらるべきこと。法は国をおさむるの権衡、民を馭するの鞭轡なり。近ごろ朝に令して夕に改む。民以て手足を措くところなし。令出て行はざるは法なきに如かず。画一の教を施して、流汗の反らざる如くせば、王事脆きことなく、民心おのずから服せん。
◎「顕家諌奏文」より抜粋
諌奏文のその他の条は、主に「後醍醐帝」の個人的な政治大権の運用と行状に関わる内容で占められている。
第三条では、爵位の授与や人材登用は慎重に行うことを唱え、「尊氏 (従二位参議) 」や「義貞 (左中将) 」など、本来は身分の低いものに高位高官を乱発したことや、逆に伝統的な「官位相当制」を無視した人事を宮廷方に蔓延らせたことを暗に批判している。しかも、対策としては、高位のものには高官を、そうでないものには土地を与えよと明確に云っているのである。これは、当時の武士たちの気持ちからしても、より望まれたことであって、武士たちの真の欲求を見事に云い得ているだけでなく、後に「徳川幕府」の基本となる「外様」政策にも通ずる考え方である点は、注目に値する。
◎「顕家」自身、「従二位」でありながら、「従五位上」相当の「鎮守府将軍」に任命されていることも、この乱れには含まれていたのだろう。後に、「顕家」の父「北畠親房」が、三位以上の公卿が「鎮守府将軍」の職に任官する際には「鎮守大将軍」と呼称し、「征夷大将軍」と同格とすることを奏請し、認められていることからも、この官位相当制の乱れがどれほど当時の公家方を悩ませていたかが窺える。
◎第四条では、恩賞は公平にすべきだと唱え、具体的には、公家・僧侶には「国衙領」「荘園」を与え、武士には「地頭職」を与えるべきだとしている。これは「官位相当制」の乱れにも共通する難点の指摘で、恩賞もまた、時宜や状況、立場などに相当して与えよと云うことである。寺院に「地頭職」をやれば、武士たちの反感を買うし、特定氏族による官職の世襲請負制を無視して、その「知行国」や「所領」を武士たちに与えれば、それら氏族からの不満が募ると云うことなのである。ここでは公家方の既得権益の保護と云う視点からの恩賞をも唱えているのである。
◎第五条及び七条は、語る程のことではない。前者では、「後醍醐帝」に対して、臨時の行幸や酒宴で莫大な費用を浪費するのをやめて、倹約するよう諌めているのである。後者では、政治に関係ないものは、政治から遠ざけよ、とシンプルに唱えているのみである。当時、公家、官女、僧侶などが政治に介入して、政治的な混乱を引き起こしていたことへの批判である。僧「円観・文観」や、帝の寵愛が深かった「阿野廉子」を意識した批判であるから、よほど腹を据えての奏上だったと云える。しかも、この「阿野廉子」は、「顕家」自身が長く奉じてきた「義良親王」の生母であるのだから、「顕家」の思いの複雑さは察して余りがあろう。
◎十六の年から戦乱に身を投じ、「奥州」から長駆、「足利尊氏」を「京都」から追って「南朝」の危機を救い、二度の「鎌倉」入りを果たし、数々の武勲を挙げながら、二十一歳で散った貴公子の、死に際しての最後の願いは、しかし、遂に聞き入れられることはなかった。
◎「北畠顕家」らの上洛後も、「霊山」の地は、「伊達氏」を中心とした「南朝方」によってよく守備されていたが、戦局は日に日に「南朝」に利あらずして、「霊山」は次第に孤立を深め、追い詰められてゆくこととなった。そして、正平二年/貞和二年 (1347) には、「北朝方」の「奥州管領・吉良貞家」によって攻略され、ついに落城するに至ったのである。その後も何度かの攻防戦が行われたものの、「霊山寺」はその堂塔を悉く焼失し、十四世紀末、「応永」の初めの頃までには最終的に廃城となった。かくして世に名高い「霊山」は、永遠に歴史の表舞台からその姿を消すこととなったのである。又、現在ある「霊山寺」は、応永八年 (1401) に「伊達氏」が再興したもので、慶長七年 (1602)に火災で焼失したものを、現在地に移転・再建したものである。 以上。