源 顕家 公(北畠顕家さん)戦死の地

源 顕家 公(北畠顕家さん)戦死の地

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北畠顕家戦死の地

北畠顕家公戦死の地

北畠顕家公戦死の地

太陽橋南詰め北畠顕家戦死の地に関して

       北畠顕家公、南部師行公戦死の地

令和5年5月22日に北畠顕家慰霊祭の開催します。

◎5月 22日は天候も良く慰霊祭も無事終える事が出来ました。ご参加頂き誠に有難う御座いました。

◎6月18日楠の殺虫剤撒布、バーナでの駆除 

◎8月20日万灯篭準備10:00〜12:00山下、溝端、濱川、古川 

◎8月23日夜6時より万灯篭を行いました。

◎12月28日正月飾り付け 

◎2024年1月4日飾り付け撤去、

◎2024年2月18日北畠顕家保存会 総会開催  

◎2月18日長寿荘 役員会

◎  北畠顕家戦死の地へのルート

◎1つ目は南海電車の和歌山行きの急行か自由席つきの特急で堺駅まで行かれ堺から各駅停車で石津川にて下車しそのまま南海ショップを通り抜けていき向かって左側の東商店街を通り抜けて右折して行かれるとその通りは紀州街道になっています、石津太神社辺りの交差点を更に直進して行かれますと紀州街道太陽橋に行きます、橋を渡り終わった所の左側に北畠顕家ゆかりの地があります。
※(或いは降りたら右側にタクシー乗り場があります(此処なら供養塔の事を聞けば分かる方もいるとは思います。駅前には説明看板があり大まかな地図が左側にあります)
◎2つ目のルートは南海電車石津川駅改札口を抜けて(ここに近隣の地図が改札口向かって左側に)直進すると、南海ショップがあり其処を抜けたら(正面には商店街の地図が有ります。南海本線高架左側の一方通行南方面への道を進んで行きます、たまに車が通りますので注意しながら石津河川堤防にあたります、目の前に石津川河川があります。其処を左側に折れ真っ直ぐ行きますと太陽橋が直ぐに見えます。後は最初の道と同じく太陽橋を越えて行き南詰めにち目的地の北畠顕家ゆかりの地があります。殆ど一本道です。
※(改札口降りたら右側にタクシー乗り場があります(此処なら北畠顕家供養塔の事を聞けば分かる方もいるとは思います。駅前には説明看板があり大まかな地図としてあります)
◎3番目のルートは阪堺電車にて来られると何処から乗られるかは定かではありませんので簡単に書き添えます、乗り場は天王寺か恵比寿停留所から乗車し我孫子(天王寺からだと直通)で乗り換えし石津川停留所にて下車し、浜寺公園方向を見て踏み切りを渡って西の方へと徒歩にて行きます。此処も一方通行なので車に気をつけせください、そのして突き当たりの道を左側へ曲がって行かれると最初のルートと合流します。此処でも車の往来に気をつけて下さい。太陽橋を渡って行くと南詰めに有ります北畠顕家ゆかりの地の供養塔があります。尚、北畠顕家ゆかりの地の周りは交通の難所となっていますので、車等でお越しなされる方には駐車場がありませんので出来る限り電車等を利用して頂ければ幸いです。
◎補足ですがgoogle MAPかYahoo! MAP等を利用して検索では北畠顕家ゆかりの地と書き添えればかなりヒットします。尚、此処はポケモンジムとして登録されていますね、検索したら出ると思います。最近はどうかは分かりかねますが。
◎来ていただきますと、少し狭い所場所だと感じられると思います、なるべく電車(阪堺電車)等にて来られるのが無難かと思います。石津川駅から徒歩で10分〜15分くらい、阪堺線石津停留所からは徒歩で5分〜7分位です。
◎次の段から北畠顕家ゆかりの地の説明をさせてもらっています。
※◎今年は、北畠顕家公生誕704年に当たる記念すべき年です。更に朝日新聞社から取材に来られるとの事です。緊張感漂いますね!それと動画等のアップロードは少し時間がかかりますのでお待ちくださいませ、
①北畠顕家戦死の地」(北畠顕家ゆかりの地)は、堺市西区浜寺石津町中5丁紀州街道太陽橋南詰めに有ります。
②今から685年前の南北朝時代の延元3年(1338年)に、「堺浦の戦い」いわゆる堺の港争奪の激しい戦いの時に、ここ浜寺石津町で戦死致しました。
③此の戦いを石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名があります。
※堺浦の戦い(石津の戦い)のCG画像は北畠顕家石津の戦いのページにあります。
◎戦闘と顕家の死
延元元年/建武3年(1336年)に、足利尊氏(たかうじ)に対抗するために京都を脱出して吉野に逃れた後醍醐天皇は、陸奥国多賀城(むつのくに、たがじょう)にいる北畠顕家に対して義良親王(後の後村上天皇)を奉じて上洛して尊氏を討つ様に命じます。
◎だが、顕家に反抗する北朝方の領主に攻められて南陸奥の南朝方拠点である霊山城に追われ、ようやく北朝方の抵抗を排して6万騎を率いて霊山城より南下を開始したのは翌年の7月であった。騎馬隊を巧に用いた戦略が功を奏し、その年の12月25日(1338年1月16日)には、斯波家長を攻め滅ぼして鎌倉を占領しました。その後も快進撃は続きました。
◎延元3年/暦応元年に入ると箱根を突破して美濃国青野原の戦いで北朝方を破りました。だが、北朝方主力が近江国から美濃に入った事を知った顕家は伊勢国に逃れて立て直しを図る。顕家は2月21日に奈良を占領するが、7日後に般若坂の戦いで北朝方桃井直常(もものい ただつね)に敗れて敗走する。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った後に河内国から和泉国に転戦して戦力再建を図り、3月に天王寺に軍を集結し同月16日に阿倍野の戦いで敗れ和泉に退く。
◎5月6日(5月25日)奥州軍、和泉堺浦の町屋を焼く
◎5月8日(5月27日)その後和泉国観音寺にて勢力の回復を図る、
◎5月9日(5月28日)奥州軍、和泉熊取、佐野、長滝の各地に進撃を開始。
◎5月15日(6月3日)顕家、後醍醐天皇宛に諫奏文を草する。
◎更に細川顕氏(あきうじ)・日根野盛治(もりはる)ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。これに対して尊氏の命で顕家討伐に向かった高師直は、5月16日(6月4日)に天王寺から堺浦に向かって出撃した。そして運命の、5月22日(6月10日)に堺浦で両軍は激突。賊軍北朝方は2万人、顕家軍は2000人程だったと言われます。 
◎顕家軍は善戦したものの長征の疲労に加えて北朝方に味方していた瀬戸内海水軍の支援攻撃を受けて苦境に立たされました。顕家は兵力200人と共に石津で北朝方に包囲されて決死の戦いを続けたものの、奮戦中に落馬してしまい、ついに討ち取られる事になる。享年21歳という若さでした。顕家の他、名和義高南部師行(もろゆき)らも戦死して南朝軍は潰走してしまう。
これによって、南朝は大打撃を受ける一方、北朝方の室町幕府は中央のみならず顕家の根拠地であった奥州においても有利な戦いを進めていく事になりました。
◎平成30年の今年は、北畠顕家公生誕700年・南部師行公没後681年と言う節目に当たります。今年の慰霊祭は前年と変わらず来賓を数名お呼びし、午前10時00分より開始し午前11時には終わる予定です。玉虫奉奠は参加者全員で行います。又、慰霊祭の祭事の際は交通誘導警備員の指示に従って行動をお願いします。皆さま方のご協力の程お願い申し上げます。おかげさまで5月22日(火曜日)は晴天に恵まれ午前10時より慰霊祭が執り行われました。来賓及び一般参加者を含めて40人ほどが列席され、祭事は2時間程で無事故で無事終わる事が出来ました。来賓の中には川崎市から来られた方や兵庫県から来られた方などもおられました。参加されました皆様方のご協力に感謝致します。

◎お問い合わせは、管理人まで直接mailをお送りしてご意見・ご感想等を添えてお願いします。管理人のメールアドレスは ritina128@gmail.comです

花将軍北畠顕家公肖像画(霊山神社蔵)

花将軍北畠顕家公肖像画(霊山神社蔵)

北畠顕家公について


                    (花将軍)   北畠顕家さんについて

文保2年、3月2日(1318年4月3日)、北畠親房の長男として生まれました。父の親房は後の「三房」の1人として後醍醐天皇に近侍した人物である。

元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、

さまざまな官職を歴任し、 元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議左近衛中将となりました。

14歳で参議の地位はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕(しじょう たかあき)ともに記されています。

◎元弘元年(1331年)3月、 後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという。※(これがきっかけで後に花将軍の名称として後世に名を残します。)

◎このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房(ちかふさ)同様に順調に出世をしていきました。これは顕家の才覚が幼少期から人々に認められていたからこそであろうと考えられます。

◎10月10日には正三位に叙任されます。、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向し、11月29日、陸奥国の多賀城宮城県多賀城市)でに到着し、東北地方の統治を始めました。

◎翌建武元年(1334年)8月、顕家は津軽における北条氏残党の追討を開始、11月19日までにこれを滅ぼし、12月17日には津軽平定の功績によって従二位に叙任されました。

◎建武2年1335年)11月12日、鎮守府将軍に任ぜられる。それに先んじて、7月には東国では北条氏残党による中先代の乱が勃発していたが、8月までに足利尊氏が乱を平定していた。同月30日、尊氏は斯波家長を奥州管領としたが、これは明らかに顕家を牽制するものであった。

◎翌建武3年(1336年)1月2日、顕家軍は鎌倉を攻め、足利義詮桃井直常の軍勢を破り、鎌倉を占領した。翌日、佐竹貞義が顕家の追撃に向かったため、顕家は鎌倉を出て進撃を開始した。その後、1月6日には遠江に到着し、12日には近江愛知川に到着した。

◎なお、顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である。当時も馬が主力の騎馬部隊でしたが主力の大半は槍や弓の兵力(歩兵部隊)での移動や戦いを強いられますので甲冑などの武具を身に付けての移動にはかなり疲労度を伴うとおもわれますね。大半の民兵の甲冑は粗末なのが多いかと思います。

その後、顕家軍は琵琶湖を一日かけて渡り、翌13日に坂本で新田義貞・楠木正成と合流し、顕家は彼らと軍議を開いた。なお、顕家は坂本の行宮に伺候し、後醍醐帝に謁見した。

◎1月16日、顕家と義貞の連合軍は園城寺を攻め、足利方の軍勢を破り、軍を率いていた細川定禅は敗走しました。さらには高師直と関山で戦闘した。その後も戦闘は続いたが、1月27日から30日の戦いで新田義貞・楠木正成とともに尊氏を破り、京から退去させることに成功します。

◎2月4日、顕家は右衛門督検非違使別当に任じられ、さらには翌5日には「大将軍」の号を賜わり、「鎮守府大将軍」となった。同日に顕家は義貞とともに尊氏・直義を追討するため京都を出撃しました。

◎2月10日から11日にかけて再度の入京を目指す尊氏を摂津国豊島河原で破り、尊氏は九州へと落ち延びた(豊島河原合戦)。その後、顕家は義貞とともに足利軍を追撃し、各地を転戦したのち、2月14日には京へと凱旋致しました。

◎陸奥への帰還
 3月2日、顕家は権中納言に任官し、3月20日あるいは24日には足利方を掃討するため再び奥州へ戻る。その帰途、相模で足利方の斯波家長の妨害を受けるが、4月にはこれを破っています。

◎5月に入ると顕家は相馬氏を破り、奥州へと一旦帰還しました。この間、顕家と共闘した新田義貞・楠木正成が九州から北上した尊氏に湊川で敗れ(湊川の戦い)、楠木正成は命を落とし、新田義貞は戦況不利と知り後醍醐帝と共に比叡山へと逃げた。

◎同年9月、武蔵国児玉郡浅見山(別名、大久保山)周辺域(現埼玉県本庄市から児玉町一帯)で、薊山合戦を起こす。『元弘日記』によれば、この戦は官軍が皆有利とある。
◎霊山出発と鎌倉攻略
  延元2年/建武4年(1337年)1月、父の北畠親房から伊勢へ来援する文書が送られた。

◎同月8日、顕家は国府を霊山福島県相馬市および伊達市)の霊山城に移しました。
同じ頃、後醍醐天皇からも昨年12月に送られた京都奪還の綸旨が届き、勅命を受けた顕家は25日に奉答書を送った。その中で顕家は、「霊山城が敵に囲まれており、なおかつ奥州が安定してないので、すぐに上洛はできない。脇屋義介と連絡を取り合っている」と返答している。

※濫觴舞楽(らんじょうぶがく)北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が多賀城から霊山神社に入城した際、地元民が歓迎と武運長久の願いをこめて舞った剣舞が起源とされています。 濫觴舞楽のほかにも、市指定無形民族文化財の「北又の獅子舞」や霊山太鼓なども奉納され、数多くの見物客が訪れます。 (下段の方に濫觴舞楽(らんじょうぶがく)画像あり)

◎8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を発ち、上洛するために再び南下した。『太平記』によると、このときの軍勢は奥州54郡から招集され、その兵数は10万余騎であったといわれてます。

◎8月19日、顕家軍は白河関を越えて下野に入り、12月8日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えた。顕家は足利方の大軍を、12月13日に利根川で(利根川の戦い)、12月16日に安保原でそれぞれ破った(安保原の戦い)。

◎12月23日、顕家率いる軍勢は鎌倉を攻撃、翌24日までにこれを攻略した。この際、斯波家長は討ち取られ、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは鎌倉を捨てて房総方面に脱出した。鎌倉を陥落させた顕家軍には新田義貞の息子新田義興、さらには北条時行が合流するなど勝ちに乗じて膨れ上がったそうです。

◎『太平記』によると、関東一円から顕家のもとに軍事が馳せ参じ、その数は50万に上ったというが、これは誇張であると考えられますがいずれにせよ、顕家の軍勢は大軍であったことには変わりなく、顕家は勢いに乗じて鎌倉から西上を開始する。

◎2月4日、尊氏の命により、高師泰師冬細川頼春佐々木氏頼高氏らが顕家軍討伐のため京を目指し進撃した。2月14日および16日、顕家は北朝軍と伊勢国雲出川及び櫛田川で戦いましたが決着はつきませんでした。

◎2月21日、顕家は辰市及び三条口に戦って大和を占領するものの、28日に般若坂の戦いで激戦の末に北朝方の桃井直常に敗れた。そのため、顕家は義良親王を秘かに吉野へ送った。

◎一方、河内国に退いた顕家は、伊達行朝、田村輝定らとともに戦力再建を図った。顕家は摂津国天王寺に軍を集結、3月8日に天王寺の戦いで勝利した。
だが、3月13日に北朝方と再び天王寺、阿倍野及び河内片野で戦い、翌14日に天王寺で敗れ3月15日には顕家軍は渡辺の戦いで勝利したものの、翌16日に阿倍野で戦い敗れ、和泉国に転戦した。3月21日、軍を立て直した高師直はこれを追撃し南へと向かいました。

◎3月22日、顕家は南朝から正二位・権大納言に叙任されている。同日、南朝は九州の阿蘇惟時に出兵を要請し、顕家の救援するように命じている。だが、惟時は出兵せず、4月27日に南朝は惟時に再度出兵を命じている。

◎5月6日、奥州軍は和泉堺浦の町屋を焼き、5月8日には和泉坂本郷並びに観音寺に城槨を構え、翌9日には奥州軍は熊取、佐野、長滝の各地に進撃し、北朝方の細川顕氏・日根野盛治 ・田代基綱ら現地の北朝方勢力と交戦を続けた。
 この間、5月10日 に顕家は東国経営の上奏文を草した。5月15日には再び後醍醐天皇に諫奏文を上奏。※これが後述の『顕家諫奏文』(画像あり)である。
◎陸奥への下向と統治
 元弘3年/正慶に年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された建武の新政を補佐していた。同年8月5日、顕家は従三位陸奥守となる。

◎京への進撃と足利尊氏との戦い
その後、11月に朝廷は尊氏の追討を宣し、新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが、12月まで足利方に破られた。尊氏は義貞を追撃し、京へと迫る勢いであった。
12月22日、顕家は義良親王を奉じ奥州の兵を引き連れ、尊氏軍を追って上京を開始する。『太平記』によるとその兵力は5万だったそうです。


新田義貞との不仲

 

◎新田義貞との連携失敗

⚪️  延元3年/暦応元年(1338年) 1月2日に顕家は鎌倉を出発し、1月12日に遠江国橋本に、1月21日に尾張国に到着し、翌日に黒田宿へと入った。

対する足利方は守護らをかき集めた軍勢を組織し対抗したが、1月28日までに顕家はこれを※美濃国青野原の戦い(現、岐阜県大垣市)で徹底的に打ち破る。一時は総大将の土岐頼遠が一時行方不明になるほどの大損害を敵に与えたが、この戦いによる兵力の減少や疲弊により京攻略を諦め、2月には伊勢に後退した。

※青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)は、南北朝時代の1338年(延元3年/暦応元年)1月20日から1月29日にかけて、美濃国青野原(現、岐阜県大垣市)を含む地域において、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝方の軍勢(北畠勢)と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢(足利勢)との間で行われた一連の合戦である。足利方は、くじ引きで陣立ての順番を決め、墨俣川(現長良川)など美濃の各地で順次北畠勢に攻撃をかけたと言われる。最終的に、1月28日から29日にかけて、北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた。

※青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰・佐々木道誉(京極道誉)・佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約5万の軍勢を差し向けた。援軍は、近江国・美濃国の国境である黒地川(黒血川)に布陣し、背水の陣を構えたと言われる。※北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力は無く、近江から京都への突破をあきらめた。北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向いました。

⚪️『太平記』では、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。顕家とその父親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌ったからだ、としている。また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した。北畠軍には義貞の次男義興もいたことから、時行に義貞への敵意、怨嗟はなく、時行が反対したとは考えられないと反論している。

⚪️義貞と顕家に対立があったかどうかについては、史料からは明確に読み取れない。また、越前へ向かう行程は難路であり、その行程の困難さから越前に向かう選択肢は考えられないと指摘する。「正鵠にかなり迫っている」と評した上で、顕家は、わざと寄り道をして、足利の注意を引き付けると同時に、義貞が挙兵する時間稼ぎをしたのではないかという見解を示している。

⚪️一方、むしろ合流を拒んだのは義貞の方で、義貞と北畠親子の間にはやはり何らかの確執があり、両者は不信関係にあったのではないかと推測している。さらには、義貞がいる越前は未だ安定しておらず、義貞は上洛よりも越前の制圧、平定を重視していたとも考えられる。この当時、足利側の攻勢は激しく、連帯感も取れていた。そのため、義貞も顕家も、目の前の敵の相手をするのが精一杯であり、互いに共同戦線を展開できるほどの余裕は残されていなかったとも指摘される。北畠親房(ちかふさ)は伊勢に勢力を持っており、勝利したとはいえど疲弊していた顕家は伊勢にある北畠氏と関連の深い諸豪族を頼るため伊勢に向かったと推測した。



人物・逸話

 

  ◎人物・逸話編集 

◎北畠顕家は凛々しい美青年であったと後世に伝わるが、これは脚色された部分が強いだろうとされる。顕家の容姿に関する当時の記録では、『舞御覧記』の元弘元年に顕家が後醍醐帝の北山第行幸に供して陵王を舞った際の記録がある。これには顕家の容姿に関して、「形もいたいけして、けなりげに見え給いに(幼くてかわいらしく、態度は堂々としている)」とある。とはいえ、顕家は文武両道ともに優れた人物である。公家でありながらも武将として、足利尊氏といった当時の武家らと互角に渡り合えるほどの卓越した手腕と戦略眼を持ち合わせていた。また、若年ながらも奥州の結城・伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕も持ち合わせた。顕家は南朝軍総大将の新田義貞と同様に後醍醐天皇から期待された存在であった。そして、顕家は何よりも現実を見つめていた。後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名であり、建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。また、戦国時代の大名武田信玄よりも先に「風林火山」の旗印を用いたとされる。

※顕家諫奏文編集

 ◎顕家は戦死する7日前という直前の5月15日、後醍醐天皇に対して新政の失敗を諌める奏上文『顕家諫奏』を遺した。速やかに人を選び九州、東北に派遣せよ、さらに山陽、北陸にも同様に人をおいて反乱に備えよ。

 ◎これは建武政権が京都のみを重視し、陸奥に顕家を派遣した他は地方にほとんど無関心だったため、反乱がたびたびおこったり、敗北した尊氏が九州で再度兵を集めて京都に攻めよせて来たことへの批判である。

 ◎諸国の租税を3年免じ、倹約すること。土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう。3年間税を免じるというのは、仁徳天皇の故事を引用したもの。土木とは、後醍醐天皇が計画した大内裏造営計画で、これにともなう二十分の一税などたびたびの臨時の増税が民心の疲弊と各地の反乱の要因であると批判している。官爵の登用を慎重に行うこと。

 ◎功績があっても身分のないものには土地を与えるべきで官爵を与えるべきではない。三木一草や従二位参議となった足利尊氏、左中将となった新田義貞など身分の低い者に高位の官職を乱発したこと、官位相当制を無視した人事(顕家自身も従二位でありながら従五位上相当の鎮守府将軍に任じられた)への批判である。恩賞は公平にすべきこと。

 ◎貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである。恩賞の不公平がはなはだしかったことへの批判。地頭職が寺院に与えられたり、特定氏族による官職の世襲請負制を破壊して彼らの知行国や所領を没収して武士の恩賞としたことが具体的に批判されている。

 ◎臨時の行幸及び宴会はやめるべきである。朝廷がたびたびの行幸や毎夜の宴会で莫大な費用を使っていたことへの批判である。法令は厳粛に実行せよ。法の運用は国を治める基本であり、朝令暮改の混乱した状態は許されない。後醍醐天皇が綸旨絶対主義を採りながら、矛盾した綸旨が出されたり、先の綸旨を取り消す綸旨を出したりするなど、朝令暮改的な行動が混乱を招き、天皇権力の低下を招いたことへの批判である。

 ◎政治に有害無益な者を除くべきである。現在、貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。後醍醐天皇の寵愛著しく国政にまで口出しした阿野廉子、僧円観・文観などを意識した批判である。

 ◎「延喜・天暦にかえれ」をスローガンにした建武の新政だが、その内実は、宋学の影響を受けた後醍醐天皇による君主独裁制に過ぎなかった。律令制以来の国家体制の再組織を狙い、官位相当制や官職の世襲請負制を打破して、既成貴族層の解体を図る新政の改革は、顕家をはじめとする貴族層にも受け入れがたいものであった。

◎諫奏文は「もしこの意見を聞き届けていただけないなら、自分は天皇のもとを辞して山中にこもる」と激越な文章で結ばれている。顕家の憤りの強さ、そして諫奏文を送る上での覚悟が窺える内容となっている。

道順

      北畠顕家戦死の地への道順
1、南海本線堺駅から各駅停車に乗り換えて石津川駅で下車。ホームの階段をおりて改札口を出て直進し、南海ショップの中を通り抜けると車道に当たります。此の道を左に取り、石津川駅前本通り東商店街を直進し突き当たり迄行くと左右のT字路に出ます。そこを右に曲がり石津川の太陽橋が見えるまで直進します。其の橋(太陽橋)を渡り切ると直ぐ斜め左に目的地の北畠顕家戦死の地が有ります。

2、2番目のルートは南海ショップを抜けてから石津川駅高架沿いの左沿いを歩き突き当たり迄行くと石津川沿いに出ます。其処を左沿いに歩いて行くと太陽橋に行けます。太陽橋を渡ると直ぐ左沿いが北畠顕家戦死の地になります。

3、阪堺線で行かれる場合は天王寺方面からと恵比寿町方面からと浜寺駅から乗車する3ルートが有りますが恵比寿町からでは我孫子道駅で乗り換えて石津駅下車、踏切を渡り西に約50〜60m徒歩にて直進し突き当たりまで行きますと紀州街道に出ます其処を左に曲がり少し上り坂になっていますので直進しますとすぐ石津川の太陽橋に行けます、太陽橋を渡ると左側に北畠顕家戦死の地が有ります。

4、1と2のルートを行かれもおよそ7分~10分程度で行かれると思いますが車等の往来がありますので注意をしながら行かれると良いでしょう。

5、阪堺線の石津川駅からもおよそ5分程度で行けますがやはり車やバイク等に気を付けながら行かれると良いでしょう。

6、石津川駅改札口から右側にはタクシー乗り場などが有りますが目的地の供養塔の場所は三叉路みたいな感じなので太陽橋にて下車されて徒歩にて行かれると良いでしょう。

7、南海本線の難波からだと諏訪ノ森駅で下車し踏み切りまで行かれ直ぐに左の商店街通りをぬけて信号を左に曲がります。紀州街道を北へ直進し太陽橋南詰めまで徒歩にて行きます。諏訪ノ森駅からではおよそ15分くらいで到着できます。なお車等の往来が有りますので注意をしながら行かれると良いでしょう。タクシーなどは拾いにくいとは思いますのでいずれのルートを通られても出来るだけ徒歩にて来て頂けると良いでしょう。

8、北畠顕家戦死の地の供養碑左横にポストを設けておりますその中には、北畠顕家戦死の地の供養碑の碑文と合戦絵図・朝日新聞の記事等を入れておりますので自由にお取頂ければ幸いです。北畠顕家戦死の地についてもう少し詳しく知りたという方々にはメールアドレスにてお願いします。

9、連絡等については下記の所までよろしくお願いします。

◎メールアドレスritina128@gmail.comに宛てに



舞楽面 陵王(ぶがくめん りょうおう)

舞楽面 陵王(ぶがくめん りょうおう)

蘭陵王

 

  ○南部藩 ゆかりの総鎮守

 ⚪️青森県 櫛引(くしひき)八幡宮 所蔵


  ※画像左側は  舞楽面 陵王    ぶがくめん りょうおう

    蘭陵王(らんりょうおう)は雅楽の曲目の一つ。別名蘭陵王入陣曲、短縮して陵王とも呼ばれる。舞楽演奏時には陵王と表す。

  ◎ 北畠顕家公は下の説明の通りこの舞楽面を被って踊ったと有ります。 尚、この時に踊っていた衣装についての詳細は不明です。

 ○蘭陵王(らんりょうおう)は雅楽の曲目の一つ、画像とYouTube動画よりアップロードされていました。

石津合戦に至るまで


※ 南北朝時代での北畠顕家軍が石津の戦い(堺浦の戦いとも石津合戦とも)に至るまでの合戦

◎1336年:豊島河原合戦(てしまがわらがっせん、摂津国)


◎1336年: 多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい、筑前国)

1336年:湊川の戦い(みなとがわのたたかい、摂津国)※この戦いで楠木正成公が戦死をとげいます。

◎1337年:金ヶ崎の戦い (かねがさきのたたかい、越前国)◎1338年:青野原の戦い(あおのがはらのたたかい、美濃国)

  青野ヶ原合戦の絵図も掲載しています

◎1338年:石津の戦い(いしづのたたかい、和泉国)別名堺浦の戦いとも言う

   ※堺浦の戦い(石津の戦い)で顕家軍と南部師行軍が高師直軍と細川軍がぶつかり更に瀬戸内水軍の追い打ちもあり、顕家公は此の地で壮烈なる戦死をし南部師行公とその部下達も其の後を追うようにし戦死をしました。此処の戦いで顕家軍の有力武将達が次々と戦死をしたので其の後南朝方が戦力の建て直しが効かず衰退をして行きます。

◎が父である北畠親房は北畠顕家死後も南朝方のために戦いをしていますが、主だった武将の中に特に結城宗弘は71歳になっても後醍醐天皇の皇子、義良親王を立てて戦力の挽回を図りますが、

◎1338年9月には、50艘にもなる船団を東へ向けて伊勢を大湊を出ますが遠州灘に入った時に大嵐に見舞われ、船団はちりじりになり親房はかろうじて常陸にたどり着きます。義良親王は篠島(尾張)へ、結城宗弘は七日間荒波の中を漂い伊勢の安濃津にまで戻されてしまい10数日後、結城宗弘は病気を患って死にます。親房も吉野へ逃げ延びます。その後も北朝方を悩まし続け傾く南朝の指揮を取り続けその後失意のまま賀名生の地にて61歳の生涯をとじます。

石津合戦・堺浦の戦いも画像として掲載しておりますのでご覧ください。

経歴

 ◎官歴
※日付=旧暦
和暦西暦月日事柄元応3年1321年1月5日従五位下に叙位。

⚪️元亨2年1322年1月5日従五位上に昇叙。元亨4年1324年4月9日正五位下に昇叙。

⚪️正中2年1325年12月30日侍従に任官。正中3年1326年1月5日従四位下に昇叙し、侍従如元。2月19日右近衛少将に転任。

⚪️嘉暦2年1327年3月24日従四位上に昇叙し、武蔵介を兼任。右近衛少将如元。

⚪️嘉暦3年1328年1月5日正四位下に昇叙し、右近衛少将・武蔵介如元。3月16日少納言に転任。4月19日左近衛少将に遷任。少納言・武蔵介如元。11月9日中宮権亮を兼任。少納言を去る。

⚪️元徳2年1330年4月6日右中弁に遷任。中宮権亮如元。10月5日左中弁に遷任。中宮権亮如元。

⚪️元徳3年1331年1月5日正四位上に昇叙。1月13日参議に転任。1月16日左近衛中将を兼任。11月5日参議・左近衛中将を辞す。従三位に昇叙。

⚪️元弘2年/正慶元年1332年12月26日参議に還任。左近衛中将を兼任。元弘3年/正慶2年1333年6月12日弾正大弼を兼任。8月5日陸奥守を兼任。9月10日弾正大弼を止む。10月10日正三位に昇叙し、参議・陸奥守如元。月日不詳右近衛中将を兼任。

⚪️建武元年1334年12月17日従二位に昇叙し、参議・右近衛中将・陸奥守如元。建武2年1335年月日不詳陸奥権守に遷任。陸奥守を去る。11月12日鎮守府将軍を兼任。

⚪️延元元年/建武3年1336年2月4日検非違使別当に補任し、右衛門督を兼任。ついで翌5日に大将軍の号を賜わる。2月26日陸奥権守を去るか?(同日、義良親王の三品陸奥太守叙任により)3月2日権中納言に転任。鎮守府大将軍・検非違使別当・右衛門督如元。3月10日陸奥大介に任ぜられる。月日不詳検非違使別当・右衛門督を辞す。12月南朝に参候したため、北朝で解官される。延元3年/暦応元年1338年3月22日に正二位権大納言に叙される。

⚪️5月22日、石津の戦いで戦死。享年21歳。法名は長興寺道音。年月日不詳、南朝にて従一位右大臣を追贈される。

北畠顕家七ヶ条画像

北畠顕家が後醍醐天皇宛に出した諌奏文

北畠顕家が後醍醐天皇宛に出した諌奏文

左側の画像は北畠顕家が後醍醐天皇宛に出した諫奏文です。


濫觴舞楽(らんじょうぶがく)

濫觴舞楽(らんじょうぶがく)

濫觴舞楽動画


670年以上の伝統を持つ濫觴舞楽(らんじょうぶがく)が奉納される祭り
北畠一門をまつる霊山神社で行われる春の例大祭。
神事のあとに、神社参道で奉納される濫觴舞楽は、長い伝統を持つ勇壮な舞で、思わず目を奪われてしまいます。
濫觴舞楽のほかにも、市指定無形民族文化財の「北又の獅子舞」や霊山太鼓なども奉納され、数多くの見物客が訪れます。 
濫觴舞楽(らんじょうぶがく)
北畠顕家(きたばたけ あきいえ)が多賀城から霊山神社に入城した際、地元民が歓迎と武運長久の願いをこめて舞った剣舞が起源とされています。 
670年以上の伝統を持ち、市指定無形民俗文化財の一つにも選ばれており、天空に太刀をかざし、勇壮に舞う姿は、見る人を引きつけます。

昭和12年6月28日朝日新聞の記事

昭和12年6月28日朝日新聞の記事

昭和12年朝日新聞にて掲載

◎左側にある画像は昭和12年6月28日付けの朝日新聞の五面に掲載された記事をアップロードして掲載致しました。当時の漢字で書かれているのでわかりにくいかもしれませんが原文のまま掲載いたしましたのでご理解下さい。内容につては拡大をして掲載をしております。

◎当時盛大な供養祭が行われいた事が記事として取り上げてました。